九月に入ったある土曜日、俺は午後から外に出た。街の反響を確かめるために、大阪・尼崎・西宮、それに芦屋と神戸をまわるつもりである。
まず、会社の近くで、梅田地下街の喫茶店に入った。サラリーマンらしい男が二人、雑談している。俺はその隣りのテーブルにつき、何気ないそぶりでスポイチをひろげて読みはじめた。
『パレード電車の栄光はいずれに!?』と、大見出しをつけた特集面を、わざと彼らの方にむけて、俺はじっと待っていた。はたして彼らは、その見出しに気づいて話題をかえた。
「何と言うても、阪急やな」
「アホ言え。阪神に決まってる」
「実力が違う、実力が。常勝阪急やで。ここ十年、ずっとリーグ優勝してるんやで。阪神なんて、突然変異で今年偶然強いだけや。というより、他のチームが弱すぎるんや」
「セ・リーグの実力を知らんな。見せる野球、本当のプロ野球はセ・リーグや。なかでも伝統ある阪神は・・・・・」
「伝統、へええ、伝統か。阪神の伝統て何や。ただ古いだけやろ。過去の栄光やろ。阪急を見てくれ、阪急を。気品、優雅、上品、あれが伝統や。電車見ても分るやろ。あの上品なあずき色。それに比べて阪神は何や、あの色は。べージュと朱やて、べージュと紫紺やて、うわあ恥かし。そのうえ、突然二輔だけジュラルミン・カーがあったりして、色彩統一なってないな」
「阪急のどこがええねん。夜でも早うはよに終電車出てしもて。ちょっと遅なったら帰られへんやないか。阪神はな、夜、北の新地で十一時五十分まで飲んでて、スッと地下へ降りたら、ちゃんと十二時発石屋川行きちゅうのが待っててくれてるんや」
「ほほう、新地で飲んで電車で帰るか。大体、そんな遅うまで飲んでクダ巻く客は阪急にはおらんわ。それにな、阪急は地元と一緒に発展しようという誠意がある。大阪、神戸、宝塚、京都、千里と、どんどん発展してるやろ。阪神なんて十年一日、大阪・神戸を往復してるだけやないか。阪神電車に乗って乗務員室覗くとな、運行標示灯スイッチに山側・浜側ちゅう表示板がついてるわ。車掌が心覚えに鉛筆かマジックで書いてるんなら話は分るけど、あれは製造工場でつけたプレートやないか。あれひとつ見ても、発展する気のないのが分るわ。山側・浜側やて。生涯南北には走らんつもりか」
「阪急こそ何や。特急に乗って十三出たら、次は梅田ァ、次は梅田ァ。あのな、あんな所に新しい駅建てて梅田てなこと言うてくれるなよ。あそこはまだ中津やないか。あそこで降りて、それから五分歩いて初めて梅田へ着くんやないか。つまり阪急は、線路短くして、その分運賃タダ取りしてるんやないか。サラリーマンはな、朝歩くのに時間がかかって困る言うて、泣いてるんやで。言わせてもらうけどな、梅田というのは阪神のある場所。あそこが本当の梅田一番地や」
「何ぬかしてやがんねん。そんな考えやから、女にもてへんねや」
「ほっといてくれ。お前こそ、ボタ餅松の木に投げつけて、引っばがして、便所の下駄で踏んでからヘッド・ロックで諦めつけたような顔の女と遊んでるくせに」
「アッ、俺の美代香ちゃんを馬鹿にしたな。こいつめ、こいつめ」
「なにを、えいえい、思い知ったか。ごめんなさい言うか」
二人が押しあい突きあいを始めたので、俺はニヤニヤ笑いながらその店を出て、国鉄大阪駅へ行き、国電に乗った。十分ほどで尼崎に着いた。駅前をぶらぶら歩いていくと、縄ノレンの下がった一杯飲み屋があったので、そこへ入った。作業服に地下足袋姿、頭にタオルで鉢巻きをしたおっさんが二人、昼間からビールを飲んでいい機嫌になっている。俺も、ちょっと飲みたくなったのでビールを頼み、さて例の如くスポイチをひろげた。
「なあ、ワン公」
「何や、チュウやん」
「阪神もよう勝ってるなあ」
「そらそうや。昔のダイナマイト打線以上ちゅう評判や。俺、前の日曜日、テレビ見て酒飲んでたら、何ぼでも飲めたで」
「ふん、気持よう飲むと酔わんもんや。俺も二週間ほど前に西宮球場行ってきたんやが、そらあええ気持やった。ワーッ言うてな」
「阪神ちゅう会社は嬉しい会社や。野球が強いだけやない。センタープール前で降りたら競艇がある。甲子園競輪もあるしな」
「そら阪急かて一緒や。西宮競輪な、仁川の競馬場な」
「あかんあかん、あの競馬はあかん。俺、負けてばっかしや」
「そら、お前の勘が悪いんや」
「いいや、あれは阪急が悪い。その証拠に、阪神乗って行く競艇も競輪も、俺よう勝つからな」
「いや、あのな、それは、そらぁおかしいで。ふん、そんなアホな」
「何がアホや。そら俺は頭は悪いよ」
「悪いわるい」
「そんなとこで念押すな。お前も別に賢こないやないか」
「賢こない。確かに賢こないよ。うむ、俺は小さい時に、寝てて、婆さんに間違うて頭踏まれてしもてやな、それから悪なったんや」
「あはははは」
「笑うな、この阪神の阿呆助」
「俺が阿呆助なら、お前は阪急の肩もつヌケ作やないか。これでも飲め」
「あッ、男の顔にビールかけたな。ようし、この冷や奴でも喰らえ」
ぐちゃ、ピチャ、えい、くそこのガキ。ぽかッ、ぽこん、あ痛、何さらすね、本気か。
殴りあいが始まったので、俺はニヤニヤ笑いながら外へ出た。
三十分後、俺は西宮の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。二人連れの大学生が近くに坐っている。俺はスポイチをひらいた。
「阪急が勝つやろな」と、目ざとく見出しを読んだ学生が、指さしながら言った。
「詳しいことは分らんけど、そう思うよ。田植監督の顔がいい。茫洋とした表情のなかに秘める、ふてぶてしいまでの闘志。あれが男の顔いうやつやな」
「しかし」と、もう一人がこたえた。
「顔と勝負は、関係ないからな」
「関係ある。意志は顔に出るもんや。意志あるところ顔あり。ビスマルクを見ろ、チャーチルを見ろ。何かしでかしそうな顔をしてたやろ」
「何かしでかしたところで、彼らは所詮、帝国主義、資本主義の番頭やないか」
「お前は、すぐそういう教条主義的判断を下すからいかん。俺は意志と顔との相関関係を言うてるんや」
「そんなことは末梢的な問題や。そもそも、プロ野球自体が瑣末な事象や。たかが球投げやないか」
「人間存在の根源である感性というものが、お前には全然理解できんのか。ゲームに潜むあの古典的ロマン。突然、白日の下にさらけ出される人生の断片=スライス・オブ・ライフと、涙をさそうスライス・オニオン。日常それ自体に内包されていて、しかもその日常を根底から崩壊させる厳然たる不条理。ファンの喜びと悲しみ。その背後に横たわる日本および日本人の風土と歴史・・・・・」
さすがに大学生だけあって、高遠難解な話をしている。監督の顔が日本の風土と歴史に発展しようとは思わなかった。フェライト派かマルテンサイト派か、何しろ哲学をやっているに違いない。俺は新聞をたたみ、つくづく感じいって、その二人の学生の顔を見つめていた。話は次第に難かしくなってきた。
「そもそも、お前の論は、阪急に勝たそうという願望が根底にある。その根底を疑わずにその上に論を組みたてること自体、すでに科学的な論としての条件から外れている。つまり、お前が毎日阪急で通学しているという、その日常性によって醸成された無意識の共感が、お前にそれを言わせてるに過ぎんのだ」
「それが偽らざる人間の姿や。それなら、お前は何で通学してるんや」
「俺は、阪神で今津まで来て、それから阪急に乗りかえてる」
「うわあ、無節操な奴やな。お前こそ、現在大多数の正常な人間が抱いている、阪急か阪神かの二者択一の興奮と喜悦に参加できない、そのヌエ的こうもり的両天びん的な日常に規定されている。しかも、自分自身のその後ろめたさを直視することによって起きる心理的圧迫感に耐えることから逃避し、さらにまた、その逃避したことをも認めたくないという心が、野球自体の存在をも否定するという方向に走ったものや。阪神・阪急の乗り継ぎなんて、恥ずべき二投コウヤクや
ぞ」
「二股のどこが悪い。そもそも松下紺之介が成功したそのキッカケは、二股ソケットを作ったからやないか」
「ふん、そんなに二股が好きなら、二股ソックスでも発明せえ」
「何を、この国士的夢想主義者め」
「やる気か、この二股日和見主義者め」
「事象の軽重を弁別する理性の名において、えいッ」
バチン。
「ようし、日常に生きる人民大衆に代り」
ビタン。
「どうだ、自己批判せえ」
「何をなにを、最後の最後まで闘うぞ」
ドバッ、ゲボッ、ボクッ。内ゲバが始まったので、俺はニヤニヤ笑いながら店を出た。
夕方、俺は芦屋のスナックで食事ををしていた。その最中に、二人の女性が入ってきて、隣りのテーブルについた。一人は洋装の大柄、一人は和服に眼鏡の小柄。どちらも四十前後の、部長夫人というタイプである。俺は思いついて、食事をしながらスポイチを読みだした。案の定、会話がこちらへ移ってきた。
「まあ奥様、最近の野球はどうでしょう」と、大柄な女が言う。
「いえ何ざすか、殿方がもう眼の色を変えてるんざァしょ」と、小柄がこたえる。
「まあ、プロ野球のどこがそんなにと、私思うのですけれど」
「いえ、それがあァた、宅の主人も近頃は病みつきざして、テレビのナイター必ず観ているようざァす」
「まあ、宅の主人も同じですわ。宅は甲子園のボックス席ですか、あそこによく招待されてるようでして」
「いえ、宅も。宅の主人は阪急にちょっと関係がござァすので、ええ。西宮球場のボックスシートを、何ざァすか、シーズン貸し切りとか」
「まあ、宅は貸し切りとまでは参りませんけど、JCっていうんですか、あの青年会議所の皆様と」
「いえ、宅も。ライオンズクラブざァすか、あれのメンバーざして」
「まあ、ライオンズクラブなら、平和台球場へお行きになればおよろしいのに」
「いえ、それが毎日忙しくて、なかなか地方へは参れないんざァす。ですから、買物なんかも私一人で出かけるざすので、たくさんの品物を持ちきれないざァす。勿論、阪急デパートで」
「まあ、私なんかは阪神の外商部に電話一本で用がすみますわ」
「いえ、阪神もおよろしいざァすけど、やはり上等は阪急ざァすから」
「まあ、じゃ私は安物買いをしていると」
「いえ、安物とは申しませんざァす。でも、古くから芦屋にお住まいの方は、皆さん阪急がお気に入りらしゅうざァすよ」
「まあ、でも統計調査では、やはり阪神の利用客が一番多いらしいですわ。やはり雰囲気が明るいから」
「いえ、統計はあァた、最大公約数ざして、やはり上流は少数ざァすから」
「まあ、私のことを下流だなんて」
「いえ、現にお宅は、芦屋川の下流にお住まいざァすし」
「ま、まあ、まあァ、くやしい。この発育不全のヒネカボチャ」
「アッ、何を、何をする。放してよ、この大女。バケモノ、怪物、百トン戦車」
つかみあいが始まったので、俺はニヤニヤしながら店を出た。
夜、俺は神戸で飲んでいた。港の近くの、外人客が多いバーである。水割りを飲みながら、午後からの情景を思いうかべて、俺はうきうきしていた。もう大丈夫だ。絶対大丈夫だ。企画がすでに自己膨張を始めて、そのスピードを増している。このまま進めば、日本シリーズの記録的盛況は間違いない。俺は、カウンターの上にスポイチをひろげ、特集記事をじっくりと見なおした。
すると、隣りに坐っていた外人が、怪しげな日本語で話しかけてきた。
「これは、何の記事でえすかあ」
俺は、概略を説明してやった。
「オウ、私これ知ってまあす」と、その男は叫んだ。
「私、アメリカ人の貿易商でえす。最近、どこの日本会社行ってもその話ばかあり。まるでメキシコかブラジルのサッカー騒ぎみたいでえすねえ」
アメちゃんは、自分の隣りに坐っていた外人とベラペラ喋りはじめた。いまの話をしているらしい。
「彼、フランスの人、言ってまあす」と、アメちゃんはその男との会話を通訳してくれた。
「このフランスの人、阪急応援する。なあぜかならば、阪急に美しいレビューガールたくさあんいますねえ。何と言いますか、そう、宝塚歌劇でえすねえ」
今度は、フランス人のむこう、カウンターの一番奥に坐っていた外人が、両手で頭をかかえ、深刻な顔でアメちゃんに何か言った。
「あの人ドイツ人、あなたに質問してくれ言ってまあすね。日本の歴史に、ゲンジとヘイケという水平的対立概念、あるいはミカドとショーグンという垂直的対立概念あありました。この阪神・阪急の対立概念は、そのどちらと同種でえすか。また、日本の野球にはウチテシヤマンの心が、どのくらい影響してまあすかあ」
俺は、大口あけて笑いだした。心の底から笑いだした。
「外人まで巻きこんだぞ。どうだ!」
いつまでも、俺は快心の笑いを続けた。

つづく