いよいよ日本シリーズが始まった。
その二週間前から、阪神間=特に西宮市内は、祭りとデモと神がかりが、合同大演習を始めたような騒ぎになっていた。
市内の各商店街が、今津線シリーズ協賛大売出しを実施し、それが阪急側と阪神側に別かれたので、すさまじい安売り合戦になった。阪急沿線の商店街が三割引をうたえば、阪神沿線商店街は五割引をうちだした。片方がブラスバンドを雇って景気をつければ、一方は町内会婦人部揃いの浴衣で総踊りということをした。毎朝、新聞をひらくとドサッと安売りのチラシが落ちる。昨日阪急、今日阪神。主婦は、毎日安い方のファンになって、打倒、必勝と叫びながら安売りの人混みの中へ飛び込んでいくのだった。
ただひとつ、双方の接点、今津駅前商店街だけは、この安売り競争には参加していなかった。
「忠か孝か義か仁か。はたまた利潤の追求か」
役員連中は悩み、考えこみ、遂に妥協案的な大売り出しを始めた。曰く、「赤かて白かてセール」まるで小学校の綱引きである。
阪神支援熱狂者同盟、略して「神狂同」というファンクラブが結成され、西宮戎神社に大漁旗を奉納して必勝祈願のおはらいを受けた。
「阪神勝ったら、ササ持てこい」
神主は、催促がましいことを言って、柏手を打った。
阪急ファンも負けてはいなかった。阪急必勝促進者連合、「急促連」を組織して市内のデモ行進を実施した。
「ハーンキュウ」
「ショオリイ!」
「ハーンシン」
「フーンサイ!」
全員が、古代ローマの兵隊調の、怪獣の背ビレのような飾りのついたヘルメットをつけていた。
警察も動きはじめた。県警本部の指示により、甲子園は甲子園署、西宮球場は西宮署が警備することになった。署長会議が開かれた。
「試合中に物を投げる奴がいる」
「座ぶとんを投げたり、空罐を投げたり、前の市会議員選挙のときなど、候補者の名前入りのポルノ雑誌を投げた奴がいる」
「で、どうしました。捕まえましたか」
「当然だ。好色選挙法違反だからな」
防止のために、フェンスに沿ってグルリと、高さ五メートルの金網が張られることになった。
両球場とも、プロレスの金網デスマッチのようになってしまった。
機動隊が警戒待機に入り、大阪府警、京都府警からも応援部隊が続々到着していた。当然、市内の弁当屋と貸しふとん屋が忙しくなる。鳴尾のふとん屋「増々屋」では、若旦那が貸しふとんの配達に追われて夜も飛びまわり、新婚まもない嫁さんが「主人は私をかまってくれぬ」と、ヒステリーを起こしてカステラをむさぽり喰い、病院へ担ぎ込まれるという事件が起こった。
提灯行列があった。旗行列があった。西宮沖には自衛艦隊が停泊して、イルミネーションをともした。「ワタシタチモ、ヤキュウミタイデース」、空母ミッドウェーまで入ってきた。
とにかく大騒動が続いていた。俺は会社へは顔を出さず、毎日市内を駆けまわって、一部始終を見たり聞いたりしていたのである。
そして開幕前日、すでに朝から、甲子園球場の周囲は人で埋めつくされていた。前売券はとっくに無くなっており、当日券を特別に前日の朝売り出したのだが、これもアッとい間もなく売り切れた。仕方がないので、売り場の窓口嬢は、全部売り切れてから、全員揃ってアッと叫んでぶったおれた。
「兄ちゃん、内野席あるで。何枚でもあるで」
ダフ屋が、俺の耳元でささやいた。見るとその男は、商社のバッヂをつけていた。
物売りが出た。香具師が露店を出した。
「メンバー表いかがですか」
「双眼鏡いらんか」
「タイガース人形どうです」
「盗聴器いりませんか」
なぜ盗聴器を売っているのかと思って聞いてみると、これを敵チームのダッグアウトにセットすると、相手の情報がつつ抜けになる。それを味方チームのダッグアウトに報告することによって、貴方は勝利のお手伝いができるのだと言った。理屈は分るが難かしい。
人の波はどんどん脹れあがり、正午過ぎには、周囲一帯の交通が不可能になってしまった。甲子園球場が物も言わずにそびえており、その周囲で群衆が喋りちらしていた。三時頃には、それが二つの集団に分かれてきた。
阪神側と阪急側である。警察の推定では、それぞれ四万人ずついるらしいという。甲子園の収容能力は六万人である。二万人はどうする気だろう。
「何でもないこっちゃ」と、俺のつぶやきを聞いて、隣りに立っていた男が言った。
「内野席、アルプススタンド、外野席。その上段に座ってる者一万人が、それぞれ一人ずつを肩
車してやればええやないか。一塁側と三塁側各一万人、それで二万人OKや」
なるほどと感心していると、この仕事で顔見知りになった旭光放送のディレクターがやってきた。
「ちょっと来てごらんなさい。エラい人が現われてますから」
「誰ですか、かんべむさしですか」
「かんべむさし?あれは馬鹿です。二十七にもなって、ガールフレンドもいないらしい。絶対、馬鹿です」
「そうですか。今度会ったら、言っておきましょう」
ディレクターは、人混みをかき分け、俺を阪神パークの正門前に連れていった。そこにムシロを一枚敷いて、タイガースのユニフォームを着た中年の男が坐っていた。
「いったい、誰ですか」
「知らないんですか」と、ディレクターは言った。
「作家の喜多北盛夫さんです。大の阪神ファンなので、捨ててはおけぬと東京から駆けつけてきたっていうことです。何でも、いまから必勝祈願のマジナイをするらしいですよ」
新聞社のカメラマンが、ずらっと並んでカメラをかまえている。
「ウヌレ!」と喜多北氏は叫んだ。
「何が何でも、阪神に勝たせるですぞ。僕は超能力を持っている。ヨガの秘法をゴマンと知っておるですぞ」
ヤッという気合とともに、喜多北氏は腕を曲げ足を折り、摩訶不思議にして怪体な姿勢をとった。
「これこそ、ハッハッ、ヨガの秘法にして絶大なる威力をもつ、ねじりのポーズですぞ。ハッハッ」
息をきらせている喜多北氏を狙って、フラッシュがバチバチとたかれた。
「優勝が決まるまで、毎日これをやるらしいですよ」
日が暮れてきて、球場が真黒い影になってそびえている。あちこちでかがり火を焚きだした。
八万人がじりじりして異様な雰囲気になってきた。万一の事態を配慮して、阪神側と阪急側の境界線に機動隊がズラリと並んだ。ジュラルミンの楯と乱闘服が、かえって群衆を刺激したようだ。
「阪神側、もっと下がって。おい、そこの男、もっと下がれ」
「阿呆たれ、甲子園警察の人間が阪急の味方するのんか」
「誰もそんなことは言ってない。第一、俺は巨人ファンだ」
「ふん、子供やな。早よ帰って玉子焼きでも食べといで」
「貴様、巨人軍を馬鹿にするか」
「小隊長、小隊長」と、警備車のスピーカーが割って入った。
「公私混同してはいかん」
完全に夜になった。坐りこんで麻雀を始めた奴がいる。酒を飲んでる男がいる。寝袋に入って眠ってるのがいる。弁当喰う奴、欠伸をする奴、エイエイオウと叫ぶ奴。野球をする奴まで現われた。
午前二時過ぎ、俺はもう疲れてしまって、、報道各社で合同契約している旅館にひきあげた。表の騒ぎは、朝まで続いていたらしい。

快晴の下で、第一回戦が開始された。回を追っての経過報告や、スタンドの状況をいちいち書くと切りがないので、試合結果とその日の最も大きな出来事だけを書くことにする。
一回戦、阪神の勝ち。阪急ファンは、敵の電車に乗れるものかと「急促連」の大のぼりを先頭にゾロゾロ歩いて帰った。ひま人がつっ立って見ていると、その行列が通り過ぎるまでに、三時間半かかったそうである。
二回戦、阪急の勝ち。この日は、阪急ファンも阪神電車に乗って、気勢をあげながら帰っていった。ただし、阪神ファンとは一緒に乗れないと言って、八輌連結の前四輌にかたまって乗った。
出る電車すべてにそういう乗り方をしたので、「急促連」の統率ぶりは見事だという評判がたった。もっとも、調子者はどこにもいるもので、阪急ファンの自動車整備工が、走っている電車の四輌目の連結器を、スパナを使って解除してしまった。そのため、阪神ファンの乗っている後四輌は、武庫川の鉄橋上で置いてけぼりを喰い、ダイヤは深夜まで混乱した。
三回戦、西宮球場に舞台が移って、阪急の勝ち。試合の最中、阪神ファンのトビ職が、メインポールにタイガースの旗を取りつけようと登りだし、警察のレインジャー部隊が出動した。その間、一時間半試合は中断。終了後、阪神銭田監督インタビューでポツリ、
「ハタ迷惑だ」
四回戦、阪急の勝ち。阪急の三勝一敗である。「明日で決定や。前夜祭やろう」と、阪急ファン三千人が宝塚温泉、有馬温泉などに繰り込んで夜通し騒いだ。「神狂同」は全員白衣で水を百杯ずつかぶり、喜多北盛夫氏は「獅子のポーズ」「鋤のポーズ」「アーチのポーズ」など、ヨガの秘法を駆使して挽回を祈ったという。
五回戦、盛り返して阪神の勝ち。「神狂同」の中でも過激な五百人ほどが集まって、「武装神狂同(バッヘン・SKD)・阪急胴上げ阻止隊」を結成していたという。全員、虎の面をつけ、虎の皮のマントを翻がえして突っ込む予定だったらしい。この日阪神が勝ったので、その悲愴感が消えた五百人は、「虎は狸の母さんよ」という不思議な歌を合唱しながらスキップして帰っていった。うちの常務も日本刀を背負って加わっていた。
六回戦、甲子園に戻って阪神の勝ち。これで五分と五分である。阪神ファンは、巨大な虎の張りボテをかついで、市内を練り歩いた。阪急ファンは、「阪神帝国主義は、張り子の虎だ」と嘲笑した。「急促連」は、決定戦に備えて休息の指示を出したので、阪急ファンは急速にひきあげた。
第七戦、決定戦とあって双方死力を尽くし、何と延長二十八回に至ってもまだ勝負がつかず、遂に引き分け。全選手体力の限界に達し、神狂同・急促連にいたっては声帯を破った者、眼玉が飛び出て元に戻らぬ者、力みすぎて脱腸を起こした者などが続出。この日だけで救急車の出動三十二回プラス一回という記録を作った。最後の一回は、過労でぶったおれた救急隊員を迎えにパトカーが出むいたのである。
なお、シリーズ開始以来、テレビの視聴状況も物凄く、甲子園でゲームのある日は旭光放送が、西宮球場の日は浪速テレビが、ともに記録的な視聴率を記録していた。他のテレビ局は最初からあぎらめて、平常通りの番組編成で放送していたが、立読テレビだけは、余程悔しかったのか「偉人川上音二郎・オッペケペ一代記」という単発ドラマおよび「凄いすごい長島温泉」というルポルタージュの特番を組んだ。シリーズが終ってから発表された二ールセンの視聴率速報では、旭光と浪速がほとんど独占で、立読の欄には、小数点以下の視聴率を示す*印がついていた。
さて、再度西宮球場に舞台が移って、最後の決戦である。この日、球場上空には、異形の雲が現われ、後に人が語るところによれば、それは金色の虎とも見え、戦におもむく勇士とも感じられ、また、狐が逆立ちをしてアカンベエしている姿とも見うけられたという。その神聖なる雲の下、押しつ押されつの緊迫したゲームが進められていった。
十万人の大観衆、寂として声もなく、ただ白球を追う眼玉だけが左右上下に動くばかりである。
じりじり、じりりと回は進む。
そして、遂に最後の瞬間がやってきた。三対二、阪神リードで迎えた九回裏阪急の攻撃。ワンナウトの後、9番ピッチャー邪魔田にかわって、ピンチヒッター渋柿ヒットで出塁。トップに戻って、河豚本三塁前のセーフティ・バンドでランナー一・二塁。2番白熊、送リバントでツーアウトニ・三塁。大観衆死人のごとく硬直し、田植監督タイムをかけてトイレヘ走り込む。3番果糖に対して阪神は敬遠策。九回裏二死満塁、得点差ただ一点。
「4番、ライト、長寿(ながいき)」
うぐいす嬢の声澄んで、ウォーンとひろがる大観衆の緊張のため息。おりから吹き来たる一陣の突風。砂塵の中に立ち、互いを見据えるピッチャー真夏、バッター長寿。一球目ボウル、二球目ファウル、三球目空振りのストライク。四球五球と選んでボウル。九回裏点差一点二死満塁カウント2=3。異形の雲もいまは去り、風おさまって晴れわたる、秋のさやけき空ひろし。
俺は、今日は放送席から試合を見ていた。
浪速テレビのアナウンサーは、顔面蒼白で額の血管がピクピクけいれんしている。声はもう完全につぶれてしまい、泣きすがるように同じ言葉を繰り返している。
「大変なことになりました。大変なことになりました」
カメラマンも興奮して震えているらしく、放送席のモニターテレビが細かく縦ブレを起こしている。
「大変なことになりました。2=3です。
大変な、あッ、あれは何でしょう」
アナウンサーがピッチャーズマウンドを指さしたので、俺はその方向を見た。
「うわッ、喜多北盛夫氏だ」
熱狂的阪神ファン、日本国作家、どくとる・ロカンボこと、喜多北盛夫氏が、毛糸の正ちゃん坊をかぶり、真紅のガウンをまとってピッチャーズマウンドに歩みよるところだった。肩から、携帯スピーカーを吊るしている。不思議なことに、球場全体が、無人のコロセウムのように静まりかえっている。ピッチャーもバッターも、アンパイアも動きを止めてつっ立っている。人形のようだ。ふと気づくと、隣りに坐っている旭光のアナウンサーも、マウンドを見つめたまま硬直している。
時間の停止、突然のストップ・モーションだ。
喜多北氏はマウンドに登ると、おもむろにハンドマイクを口に当てて喋り始めた。
「ケシカラヌ、ケシカランですぞ。試合は残すところあと一球、この一球で決まるではないですか。その一球で打たれたらどうする、阪神は負けるではないですか。一打逆転、サヨナラばいばいョではないですか。僕は、シリーズ開始以来、あらゆるポーズをして念力を放射してきた。おかげでパンツの紐が緩んでずり落ちるほど痩細ったです。当然、四連勝するはずだった。しかるに、あろうことかあるまいことか、第八戦までかかっている。神よ、その八戦が危ないのです。これで負けたら、僕は絶望するです。絶望のあまり、大砲に込めた弾丸にロープを結び、そのもう一方の端を僕の胴体にくくり、ズドンとぶっ放して月へ行ってしまうかもしれない。コロポックルにかけて、本当ですぞ。といって、興奮してばかりでは何にもならぬ。だから、僕はいまから、一世一代、全智全能を傾けての超能力を発揮するですぞ。その結果、どんな面妖な不可思議な状況が生まれても、このどくとる・ロカンボは関知しないですぞ。ああ、コアトリクエもアトゥム・ケプレルも、はたまた、アメノナカヌシノミコトもヒョータンツギも、いざ御照覧」
喜多北氏は、マウンドの上でひざまずき、一心不乱に祈っているようだった。静かだ。本当に静かだ。突然、スックと立ちあがり、天を仰いで、喜多北氏は叫んだ。
「ラム、ラム、ラム。ラマクリシュナ!」
ラマクリシュナ、ラマクリシュナ・・・・・と、ハンドマイクを通した声が、スタジアムの擂鉢のなかで反響した。
喜多北氏が消えた。浪速のアナウンサーが、かすれた声で喋りだした。
「さあ、大変な状況です。最後の一球、真夏ふりかぶった。ランナーいっせいにスタートを切った!」
ウワーッという大歓声が巻き起こった。
「試合終了、試合終了です。座ぶとんが飛んでいます。五メートルの金網越しに、いろんな物が投げられています。空罐が飛んでいます。靴が飛んでいます。背広の上下も飛んでいます。失礼、人間が入ったままでした。
アッ、金網が破られました。観客がボロボロとグランドにこぼれ落ちています。一塁側から、三塁側から、観客がグランドに飛び込んでいます。走っている、突っ走っている。
中央で出会った。アッ、殴り合いです。殴り合いが始まりました。グランドもスタンドも乱闘五万人対五万人の大乱闘です。私も行きたい。行くいく。わいも行くでクソッタレ、どついてこましたんねや。では、全国の皆さん、さようなら。あ痛、このガキ・・・・・」

つづく