こんばんは( ˊᵕˋ* )

ローズウィンドウ工房る・ぽみえ
【Le Pommier】
カラーセラピストのさとこです( ˊᵕˋ* )

神戸でローズウィンドウ講座・ワークショップを開催しております( ˊᵕˋ* )   

ご訪問いただき 誠にありがとうございます…✨


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八重桜をイメージして…
『春を待つ』designed by Satoko.


神戸でも桜が開花し始めました
すぐに満開になりそうです


毎年
日本中がこの桜のピンク色に心を踊らせる
桜の力ってすごいですね…🌸


桜の花粉には
人を幸福な気持ちさせる脳内物質
『エンドルフィン』が含まれているそうですよ
桜の下でのお花見が盛り上がるのもわかりますね( ˘͈ ᵕ ˘͈  )



桜が咲き始めるこの季節
毎年思うともなしに思い出していたことがあります


それは
桜の、黒っぽく見えて触るとゴツゴツしている幹や樹皮は
そうは見えなくても実は内部はピンクに色づいていて
見えない部分で懸命に美しい色を作り出している、ということ

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桜の花びらは
桜のピンク色のそのほんの先端だけが姿を現したに過ぎない、ということ

桜の枝が、幹が、全身が、全てが美しいピンクになろうとがんばっているからこそ桜の花はこのように美しいのだ、ということ

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5日、詩人・大岡信さんの訃報を知り
あ、そういえば…これって…と、思い出しました

ずーっと昔
国語の教科書で読んだ
大岡信さんが書かれた『言葉の力』という随筆に書かれていたのです

とても美しい文章です
末尾に載せておきますね




大岡さんはこの随筆の中で
桜の様子と言葉の世界は同じなのではないかと書いています

その前段を少し…

『ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにある。』


…言葉は
その言葉を発した人の内面~人間性や知識や見識といったもの~を全て背負っている


言葉それ自体が美しいというわけではなくて
その言葉を発した人の内面を表しながら
美しく輝く…

(同じ言葉でも発した人によっては輝かないこともある…ということですね)

こちら側の立場やそのときの気分
相手との関係性もありますが…


確かに同じ言葉でも
心に響くときと響かないときがあります


文章は
『言葉一語一語は桜の花びら一枚一枚と同じ』
と続きます
根幹(自分本来の姿)があって、そこから溢れ出すものが花びら一枚一枚…言葉一語一語である…


一語一語に自分の内面が、底にあるものが、全てが、にじみ出てしまうと思うと
発したすべてが自分だと思うと
自分の浅さが露見してしまうのが
怖くも恥ずかしくも…
言葉選びにまた慎重になります


慎重に選んだところで
浅さは丸わかりなのでしょうが^_^;


でも言葉は日常なくてはならないもの
必ず使うもの
ならば浅いなりに
大切に使っていきたいものです( •̀ᴗ•́ )

人はたったひとつの言葉で幸せになれることもあれば
消えない傷を追うこともあるのですから


美しい文章に出会えて幸せでした
大岡信さんのご冥福を心よりお祈りいたします…


…このたび気づいたのですが
大岡さんとわたし
誕生日が一緒でした…(* ⁰̷̴͈꒨⁰̷̴͈)





さとこ





日本ローズウィンドウ協会認定講師
カラーセラピスト
神戸市在住
lepommier216@gmail.com




 言葉の力    大岡信

人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

 京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。

「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」

と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

 考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。

 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
  (光村図書出版)