ミタさんが阿須田家でやったことは何か。それは個々人が押し隠しているものを表面化する行為であった。それは常に社会の常識の範囲をはるかに超え、法律の範囲も超えて突き進む。挙句の果てに自分で灯油をかぶって火をつけようとする。

すべて彼女は「業務命令であれば、頼まれたことを何でもやってしまう」ということになっている。「承知しました」と言って。しかし、考えてみれば、彼女は自分がなくて、ロボットのように他人の言いなりになっているのではない。それは常に「私にできることであれば」という条件が付いていることからもわかる。また、笑うことだけは最終回まで業務命令でも拒否していて、言われるとお暇をもらう、と言い出した。

彼女がやるのは、実のところ、自分がやりたいことを、他人の命令の形を借りてやっているのである。それは灯油を被るシーンに最も的確に現れている。彼女は、自分で自殺しようとしてもどうしても死ねないので、「死ね」と業務命令される日を待っていたのである。

それは実のところ、第一回でも同じことをやろうとしていて、幼稚園の帰りにキイちゃんが、母親が溺れ死んだ川にはいって天国に行ってお母さんに会いたい、と言ったら、「承知しました」と言って、二人で川に入るのである。このときは長男が止に来てあやうく難を逃れたが、それは焼身自殺のシーンも同じで、子どもたちが止めに来なかったら、マジで火をつけるところであった。止められたミタさんは「いい加減にして!」と絶叫していたが、それは第一回に長男に妨害されたシーンを踏まえているのであろう。

第一回では母親の形見を燃やしているが、ミタさんは夫の形見のドクターズバッグと子どもの形見の帽子腕時計とをいつも身につけている。実のところ、死者の呪縛から逃れて形見を燃やしてしまわないといけないのは、彼女の方である。形見を燃やすという命令を躊躇なく行動に移したのは、この自分ができないでいる行為の代償のためだと思われる。

この形見燃やしで、燃え上がる形見と仏壇とを見ながら子どもたちは、

(1)自分は長女らしいことは何も出来ない。(結)
(2)自分は母親に嫌なことを言われたことと、うるせぇと言ったことしか思い出さない。(翔)
(3)自分は私学を目指して頑張って勉強していたけど、もう合格しても褒めてもらえない。母親が自分のことをどのように考えていたのかわからない。(海斗)
(4)自分は無理やりトマトを食べさせられそうになり、お母さんなんか死んじゃえ、と言ったら、本当に死んじゃったと思って後悔している。(希衣)

という思いを吐露する。これらはすべて、母親が子どもたちのことを強く呪縛していることを明らかにしている。長女には「長女らしくしろ。できない、お前は悪い子だ」とプレッシャーを掛け、長男には純粋な憎悪を向け、次男には「私学に合格すれば褒めてやる、そうでなければお前は無価値だ。」というメッセージを送り、次女には「お前が私を殺したのだ」という恐るべき呪いを掛けている。

ミタさんの行った形見燃やしは、このような母親の呪縛を見抜いた上での行動だと思われる。実際、この場面で子どもたちが上のような吐露を行ったことで、彼らはかなりの程度、この呪縛から自由になり、希衣の誕生日パーティーを続行できた。その場面でミタさんは、母親の肉じゃがと同じ味を再現して全員に衝撃を与えているが、これもまた、呪縛からの離脱の効果があるものと思われる。それは「母親の味は彼女一人のものではなく、再現可能である」ということを示しているからである。

このドラマの主軸は、

(1)ミタさんに掛けられた死んだ夫と息子の呪縛。
(2)阿須田家に掛けられた死んだ母親の呪縛。

の二つの呪縛からの離脱ではないかと考えられる。その二つの軸のからみ合いがドラマの主たる作動のエネルギーを与えているように感じられる。
(つづく)