去る平成31年3月17日、維新政党新風・愛知県本部は、『豊川海軍工廠の体験談を聴く会』に参加してまいりました。豊川海軍工廠は、昭和14年に開庁し、旧日本海軍の航空機や艦船が使用する弾丸、機銃などを生産する主力工場として運営されていました。豊川海軍工廠があった場所は、平成30年6月に豊川海軍工廠平和公園として整備され、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えることを目的とし、多くの市民が集う場所となっています。

 

 体験談をお話し下さったのは、豊川海軍工廠でお務めをされていた村瀬さんと白石さん。お二人の貴重な体験談は、戦時という非常事態において、国民がどのような苦汁を飲まされるのか窺い知れるお話でした。

 

 

 工廠での生活は、起床のラッパで起きるところから始まる。上下関係が厳しく、同い年の上官からの体罰もあったという。第一機銃工場は、今の日本車両がある場所で起爆装置、時限信管等を作っていた。旋盤を使った流れ作業で、夜勤もあり、きつかった。母からの手紙が嬉しく、また当時海軍工廠女子挺身隊に所属しておられた姉が欲しいものを面会で持ってきてくれて有難かった。手紙は全て検閲され、届いたものには判が押してあった。家族との手紙のやり取りは、検閲のため届かなかったものもあり、中には軍事機密情報でないただ弱音を吐いただけの文面でも届かいことがあったという。村瀬さんは当時を振り返り「精神が鍛えられて有難かった」と回顧されている。また、豊川海軍工廠には、朝鮮人も所属していたが、一緒に買い出しに行くなど仲良くしており、制度的にも意識的にも差別は全くなかったという。

 昭和20年5月19日豊川に空襲があり、安全確保のため豊川海軍工廠の信管工場は新城の小学校に疎開しました。同年8月7日午前10時過ぎ、B29が豊川海軍工廠へ3256発の爆弾を落とし、この爆撃により2500名の尊い命が失われました。僅か26分間のことでした。生産第一で、退避命令が遅れた事も悔やまれます。新城のお二人は、午前中爆弾の音に気がついて、工廠の方を見るとB29が東へ去っていくところを目撃されたそうです。B51戦闘機が新城まで来ており、機関銃を撃ってきたので、松林に避難されたそうです。

 

 二日後の9日の朝、第一信管工場へ鍬を持って応援に行くと、屋根や壁が吹き飛ばされ、鉄骨のみが残っており、辺りは凄惨な状況だったという。手が転がっており、穴の中に内蔵が落ちていて、唖然とした。上官の命令で、遺体を埋めましたが、私は若いので何もできず見ていました。千切にも工場があり、応援に行ったところ悲惨な状況で、知人も探しましたが、遺体の損傷が酷く、面影も残っていなかった。そして、千切りの山に墓地が作られました。その後、残された人達で慰霊のための八七会が作られ、供養塔で奉仕活動や慰霊祭が行われている。

 

 終戦を迎えた日は、廊下で全員が整列し玉音放送を聴き入り、「戦争が終わったということだ」と説明を受け、嬉しさ半分、残念な気持ちが半分だったという。これからは日本の復興のために頑張ってほしいと言われ解散をしましたが、この先日本がどうなるのか不安に襲われたそうです。

 

 村瀬さんは、後に60人規模の会社を立ち上げられました。当時を振り返り、「人間形成の上で役にたった。精神が鍛えられてありがたかった。声を大にして、やればできるんだということを教わった。」とご自身の経験を肯定的に語ってくださった。「平和が第一。東アジアの平和を脅かす北朝鮮、世界で起きている民族紛争、宗教トラブル、銃社会に疑問を感じている。」と時事問題についてもお話し下さいました。

 白井さんは、現在は定年され、戦争体験者として、語り部をされています。「初めての物造りが兵器でした。後の仕事に役に立ちました。当時の仲間を供養したい。記念館ができてとても嬉しい。今後、平和の象徴として残してほしい。空襲の犠牲者のためにも。」「70年以上の長期にわたって、平和な時代が続いており、今日、日本人の半数以上が戦争を知らないが、外国の戦争を人事だと思わないでほしい。」と思いの丈をお話し下さいました。

 

白井さんが詠われた短歌

 

 平和公園内の旧第一火薬庫跡

 

土塁の中に設置された旧第3信管置場

 

空爆による被害を拡大しないために作られた土塁

 

旧第三信管置場

(被害を最小限に抑えるため壁はコンクリート製)

 

 時代的な背景もあり、体罰は当時当然のことだったのでしょう。現代人の感覚では、理解しがたいお話もありました。空襲により2500名の工員の尊い人命が失われた訳ですが、生産第一でなぜ人命を第一に考えられなかったのか。戦争は、非常事態であり当時の状況を正確に理解することは不可能で、批判する資格があるとも思いません。しかし、当時の出来事を正確に理解しなければ、日本人はまた同じ失敗を起こす可能性が大きいのです。現在は、学校からも体罰はなくなり、人権意識は高まっています。その一方で、学級崩壊が問題となり、生徒は教師に対する礼節を失い、子供は社会規範を学ぶ場を失いつつあるのではないでしょうか。体罰と虐待、暴行をあまりにも同一視しすぎではないでしょうか。日本人は、極端に走りすぎる。そんな気がしてなりません。