去る6月2日(金)、名古屋市中区大須3丁目の景陽山總見寺に行って参りました。景陽山總見寺は、織田信長公の菩提寺で臨済宗妙心寺派に属し、慶長16年(西暦1611年)の清洲越しにより現在の場所に移されました。織田信長公画像や旧清洲城障壁画など数々の文化財が所蔵されています。

 

 

 

總見寺は、年に一度信長公の命日である6月2日に山門が開くのみでその日以外は参拝できません。コロナ禍の影響でここ数年は、命日にも閉ざされたままだったようですが、今年はコロナ自粛も明け数年ぶりに山門が開きました。この日は全国的に悪天候になりましたが、土砂降りの中参拝と御朱印を求め多くの信長ファンが訪れていました。山門をくぐって左手奥に、織田信長公廟所があり、手を合わせてきました。

 

比叡山焼き討ちや長島一向一揆弾圧、石山本願寺焼討ちなど、残虐な印象が強い信長像ですが、江戸時代の作家により面白可笑しく創作や脚色され、歪んだ信長像が伝わっている部分も多く、近年の研究では比叡山焼き討ちも焼き討ちの痕跡が殆どなく、比叡山側の者の日記等書物を根拠としており、通説が疑問視されています。

身内からの謀反や同盟者からの相次ぐ裏切りや信長包囲網に苦悩しながらも、朝廷を守護し、領民を愛した信長公は、近世の萌芽期に天下統一と太平の世の礎を築きました。信長公に限りませんが、戦国時代、東南アジアの諸外国がポルトガル、スペインに侵略されていった中、戦を繰り返してきた戦国武将が侵略から日本を護っていた事は紛れもない事実であります。鎌倉時代といい、国体が護持されてきた日本の歴史に偶然としては出来すぎる神がかりなものを感じずにはいられません。

 

紫陽