こんにちは

 


あなたに

「それでいい」
を届ける

 

 


才能言語化職人

 

 

 

チキータばななです(*^O^*)

 

 

 

よろしくお願いします。

 

 

 

 

ぼくはがっこうのせんせいをしていて
日がな

 

 

子どもに話を聞かせる。
課題を理解、習熟させる。

ということをしています。

 

 

とっても大変です。

 

 

大人は分かったふりが出来るのと
理解していなくっても追い詰めなくってもいいのですが、

 

 

「子どもは未成熟な大人」
という価値観のある社会では、

 

 

何かをマスターさせず
「してもしなくってもそれでいい」

といっているのは
結構

怠慢なことだと誤解されます。

 

 

そこで、ある程度
ぼくも頑張るのですが

 

 

限界があります。

 

 

 

 

なぜなら人はそれぞれ固有の
「見方」をしていて
一人ひとりが
まったく違うものの見方をしているからです。

 

 

 

この前もあったんですが、

校庭に出ていて学習をし、時間がおし、
さらに次の時間に体育館に行って
学年で練習予定があったため

 

「教材を元にあったロッカーにもどしてから
体育館に行くための準備をするんですよ」

 

 

と言ったんです。

 

そうして、子どもを教室に帰し
ぼくは一人現場の復旧をして
あわてて教室に戻ると、

 

その教材が

ぼくの思惑通りに
元のロッカーにあったのですが

 

 

中には、

 


ぼくがロッカーが混んだために
一時的に教材を出した場所に戻されていたり

 

昨年までの慣習から
机の脇に置かれていたり

 

ぼくが戻ってくるまで律儀に待っている方。


それをもったまま遊んでいる方。


机の上に置きっ放しの方。


まさにそれぞれが違うんですね。

 

 

 

 

これが教材や先生の「見方」に対する
「聞き方」の反応なんです。

 

 


聞き方は親の影響を受けているんですが、
ぼくはそれを
「トラウマ」

とはこれっぽっちもとらえていないんですね。

 

 

むしろ、親に
「小言を言ってくれ」
と頼んでいるようにしか思えない。

 

 


そんな聞き方、そして見方。

 

 

みんなで鉛筆を見ていても
どこで、どの角度で、
どんな気持ちで、どの時間で

それは全て違うんですね。

 

 

というとその鉛筆を
その見方で見ているのは
「わたし一人」なんです。

 

 

これって凄いことじゃないですか。

 

 

そして、その鉛筆にたいして
何らかの行動をするとき
わたしたち固有の「聞き方」で反応するんです。

 

 

 

 

すぐ手にする。
様子を見る。
だれののものか邪推する。

他の人と情報を共有する。


これもまたその人その人違うんです。

 

 


でも、多くの人はみんな同じだと思っているんです。

 

 

 

だから、近しい旦那さん、
子どもに対して
自分の見方や考えが絶対のものだと疑わないんです。

 

 

 

お子さんに対して言う
「どうして

そんなことも

わからないの」
っていうコトバはまさにそれで

 

 

 

じつは相手(我が子)はそれを見ていないかもしれないし、
見ていることも見ていないことも証明できないんです。

 

で、ぼくが講座でやっているのは
その人が見ている、聞いている世界の一端を

ぼくなりに部分的に通訳しているだけなんです。

 

だから全てじゃないんです。
一部なんです。

 

 

そしてありスクでつくっている
見方グループや聞き方グループは

 

 

「限りなく似たような人」
の集まりで
まったく同じ人の集まりじゃないんです。

 

 

 

つまり
その見方、その聞き方に
責任を持てるのはその人だけで

 

 

 

 

ぼくはその人の
一部に
「それでいい」
って言っているだけなんです。

 

 

 

 

 

だから
ありスクにしてもその他のイベントにしても
自分が自分に
「それでいい」
って全肯定することが何よりも大切で

 

 


ぼくらはそのお手伝いをしているのです。