オリンピックを開催すべきか中止すべきかの「べき」論を知人に持ちかけられたとき、「私はその議論には加わらない」と宣言している。
昔、一通の手紙をもらったからだ。コロナ禍より随分前のことである。
オリンピックを目指しているという方からだった。
その手紙を頂戴していたので、今この瞬間も黙々とトレーニングに励んでいる人たちがいるということを最初から思えた。
つくづく作家というものは読者に教え導かれている。
オリンピックを目指している人々がどのような思いでいるかは分からない。開催されたら開催されたで防疫への不安や恐怖があるかもしれないし、さりとて中止されたら中止されたでやはり思うところはあるだろう。スポーツ選手には選手としてのピークというものがあるだろうし、「次の機会」がまた目指せるとは限らない。
東京オリンピックを目指している人々は、既に平時のオリンピックより多くを耐えている。そこに「べき」論で余計な重荷を負わせたくない、というのが一個人としての素直な願いである。
東京オリンピックは私にとって「開催もしくは中止される」ものであり、それ以上でも以下でもない。「こうあるべき」は存在しない。
どちらになっても当事者は受け止めるべく心を律して過ごされているだろう。
であれば、まったくの部外者である私はどちらになっても淡々とその報を聞きたい。「開催すべきだった」「中止すべきだった」と「べき」論の延長で当事者を苦しめたくない。
東京オリンピックが開催されるとしたら心から選手を応援したいし、中止されるとしたら労る気持ちを静かに持ちたい。それ以外は何もない。
外食についても観光についても思うことは同じである。ここにも「すべきか」「すべきでないか」の議論が渦巻く。その議論は当事者を苦しめるかもしれないという現実が常に伴い、小心な私は傷つける範囲が見えない「べき」論にはあまり加わりたくないと思っている。
特にコロナ禍の最中は余計にだ。みんな疲れている。疲れているときは言葉の手綱が滑りやすいし、心の余裕もなくなりがちだ。
ネット上では「疲れているので言葉が足りなくなる(雑になる)人」と「疲れているので言葉足らず(雑)を許せない人」の削り合いが散見される。おそらく三日もすればどちらにも削られた疲弊しか残らない。そのうえネットという鉄火場には火と見るや煽って楽しむ輩が24時間全裸待機しているし、何なら自分で付け火をしてでも火事を見たいというクズもいる。
人間は負の刺激でも受け続けているとその刺激に依存するようになるという。
疲れているときは鉄火場から離れ、美味いものを食ってよく寝て推しを愛でて自分のメンテナンスに励みたい。
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