理屈について | 雪うさぎ

雪うさぎ

 子供のときから、作文とか読書感想文は苦手で^^。
 つたないながらも、少女漫画と少女小説の紹介をして
いきます。

注)今回は・・・。


 このアメーバーで親交のある方の記事に刺激

されて、書きます。


 学問、そして、現代若者の批判・・・ひいては、社

会風刺の話ですので、多分、不快になる方が多い

と想うので、なるたけ、アラサー以下は、読まない

でくださいw。






  インターネットという、言語(文章)のみを媒体とした

”社会”の普及により、他者がそれを読むか否かは別と

しても、簡単に”私の主張”を言える場所ができました。


 「私の考え」ということで、HP等で主張されるのはよろ

しいのですが、それが「(私の)~~論」や「これが、理屈

(物事の筋)というものだ」と表記される方もいます。
その殆どは、「私の考え」であって、「論」や「理屈」としては

成立していません。
 「考え」と「論」では、学生の書く「作文」と大学院生の書く

「論文」くらいの差があります。
 余談ながら大学生の書く「卒論」は、その生徒が学生生

活で「何をしたか?」によって、一応「卒”論”」の体裁が整

っているか、稚拙な作文になるか分かれます。
 それ以下の大学入試等の「小論文」テストになると、高校

生以下で「小”論文”」が書ける子供はいないので(もし、か

ける人がいましたらその人はいわゆる”天才”という方です

)、大学入試の”小論文”は、たんに、国語の形式や内容し

か見ませんので、文章力テスト、発想力・思考能力のテス

トと言い換えられる類のものになります。

 では、「作文」を「論文」にまで昇華させるにはどうすれば

良いのでしょうか?
 前提としては、当たり前のことですが「タイトル」にあらわ

せる「問題意識」があり、その問題意識を解決する過程の

「内容」があり、「タイトル」→「問題意識」→「内容」が脱線

せずに「結論」へと結びついているか?ということです。
 オーソドックスな形式での話ですので、「結論」がまずあり、

その解説という手順等もありえますが、高度な方法論は、多

くを学ばれてから・・・にしないと、大概失敗します。
 これだけの過程ですと、作文の書き方と変わりませんが、

実際の内容は違います。
 良い例がw、大嫌いなアニメ・エヴァンゲリオンブームのお

りに、少し読んだ「私のエヴァ論」みたいなHPに多くあります。
 細切れに「この場面の解釈はこうで、だから、これはこうい

う意味だ」と言う風なのはありましたが、では「その意味とや

らを、総合して、全体として何を言ってたの?」という筋もなけ

れば、「結論」すらみあたりません。
「筋」がない時点で、「理」ではないのですが、「結論」すらな

いのでは、小学生の書く、「夏休みの宿題の(絵)日記」とか

わりありません。それら、稚拙な”考え”しかできない者同士

が、「あんたの意見はまちがってる」とか言い争っている様は

ほんま、醜悪以外の何者でもありませんでした。

 当然、各事例は、結論に結びつくものであれば、結論へと

至る過程で出すのは当然ですが、その事例自体が「部分の

解説」に留まっているのでは、道筋から
外れたものとなり、「論」では、「わざわざ事例としてあげる必

要のないもの」となります。
 これでは、単なる「読書感想文」であって、「論」ではありま

せん。

 そして「タイトル」→「現在の状況」→「問題意識」→「解決へ

の手順」→「そこから導きだされる結論」と言う体裁が整ったと

しましょう。
 これが本当に整っていれば、ほぼ99%は”理論”が成立し

ています。というのも、殆どの「作文」はこの形にすら、”なって

いない”からです。子供(といっても、聞くと結構な歳の方もいら

っしゃいますが)の話をきいて「形式ばかり・・」と思うのは、この

点です(最近では子供の方から、そういった類の言葉を聞きま

すが)。大概は、その「形式」とやらに「どんな意味を含有してい

るのか?」と言う内容は含まれていません。ほんとうに「形式」と

いうより「表面」のことを”国語辞書的に”解釈してるだけ・・・と言

う人が多いように思われます。(この辺は「学校教育」の問題に

なってしまうのですが)

 そして、ここで言う”理論”とは観念論上の”理論”です。
この「”理論”」に適合しているか否か?と考えなければなりま

せん。勿論、適合していなければ、「へ理屈」となります。
大雑把に分ければ、この”理論”は”演繹法”と”帰納法”の2つ

しかありません。良く耳にする言葉で「三段論法」と言うものもあ

りますが、この方法論は副次的なもので「帰納推理三段論法」か

「演繹推理三段論法」に分けられます(正確にはもう1種あるので

すが)。
 帰納法・演繹法については、辞書的な意味解説で分かれば良

い範疇の事柄ですので、省きますが、一例をあげれば・・・・・・
 「人間の経験や、一般の生活での思考」や「心理学」等は帰納

法によって成り立っています。ので、殆どは帰納法が使用される

ことが多いです。
逆に演繹法で有名な例は「我思う故に我あり」です。
帰納法では結論にあたる「我思う」の部分が演繹法上の「前提条

件にあたり」、そこから「我あり」という新たな結論が導きだされて

います。

 そして最後に、また忘れがちで軽視されるのですが、「理論」が

「理論」として成立しうるにあたって必要不可欠なのが「対立する

理論」の存在です。
違う道筋で違う結論に導き出された「対立する理論」を踏襲しな

ければ、「この理論は間違いだ」ということになってしまいます。
某漫画の台詞ではありませんが「真実は常に1つです」・・・同じ

課題に対して2つの「結論」はいりません。
 これが理論派閥と呼ばれるものです。

 上記のことが整って、初めてかろうじて「理論」としての初期段階

の体裁が整います。後は、色々な知識や経験をへて、「私的には

こう思う(考える)」という、子供の発言しかできない人間から、一人

前の論述を「発言」できる人間へと成長するしかありません。

余談
 理論派閥については、例えば、その分野で初めて論述した人は

どうなるのか?と
言う問題が残りますw。
例えば「フロイト心理学」「柳田民俗学」等。
 フロイト心理学については、(一般心理学自体が学術としては少

し特殊なのですが)ちゃんとした本を読んだ人ならわかりますと思

いますが理論ではありません。単純に「無意識」を発見したとだけと、

頭の片隅に残しておけば良いことです。(ゴスブームみたいなのや、

ひねくれた餓鬼の思想でよく「心理学」とか「フロイト」とかでてきます

が、ちゃんと心理学を理解してから言いましょうと言いたくなりますw)
(某銀英伝でもユリアンの「それは心理学の問題ですね」という台詞

がありますが、「それは心理テストの問題ですね」と言うべき内容で、

「学」というレベルのものではありません。)
 「柳田民俗学」については方法論が斬新的でしたので、はじめて読

むと戸惑うかもしれませんが、「フロイト心理学」と違って、過去に「心

理学」・・・こちらでは「民俗学」になりますが、「存在自体がなかった」

わけではありませんので、「文化人類学」の中の「新しい方法論」とし

て読むと、スムーズに何がいいたいのか?分かると思います。
 鎖国やらなんやらで、日本は当初「後進国」でしたが、「文化」と「文

明」は違います。「日本でペストが流行しなかったのは何故か?」「ベ

ルサイユ宮殿では、糞尿を柱の影でたれながし」等の事例で言えば

分かると思いますw。