長らくブログから離れ、YouTube”トレーニングラウンジ”の展開に時間を割いてきましたが、久しぶりに文章で。

 

 

 

お題はスポーツと8月15日。

これまでもこのテーマでは何回か書いてきました。

スポーツに携わる者として、僕はこのテーマから目を背けることはできないし、目を背けるべきではないという信念を持っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

特に今年は”平和の祭典”(のはずだよね)であるオリンピックとパラリンピックが東京で開催されるという日本にとって歴史的な年で。

 

 

 

そういう年の8月15日はやっぱり考えることもあるわけで。

 

 

 

前提として僕はパラリンピック5人制サッカーの日本代表コーチとして選手団の一員です。

だからしっかり当事者ですし、開催の賛否意見には両意見に日々心を痛めています。

 

 

 

ただコロナ禍というややこしい要素は今回は本題ではないのでちょっと置いておきます。

 

 

 

*他にも置いておきたいことだらけですが、、。

 

 

 

 

 

 

広島・長崎に原爆が投下された日に、オリンピックが開催中だったことを覚えている方は多いと思います。

 

開催期間が決まり日程が発表された時に、僕はこの2つの日をどう扱うのかにすごく関心がありました。

 

開催地である日本が、歴史上唯一の被爆国であり、原爆が投下されたその日に平和の祭典がまさに開催されている。

 

 

 

 

日本の、そして日本のスポーツ界が”姿勢”を示すのにこれ以上ないタイミング。

 

 

 

それを狙っているとしたら、、この酷暑期間を選択したことも納得できる。それしか納得できないほど唯一の理由。

 

(それほど暑すぎる)

 

 

 

だから心のどこかでこの日のことを世界に向けたメッセージとして発せられるのではないかと思っていました。

これまでの政治スタンス的に期待はしていないながらも…。

 

 

 

でも。

いややっぱり。。

 

 

 

”政治的行為”にあたるから、だそうです。

少なくともスポーツ界としてもっと揉めてほしかったしスポーツジャーナリズムはもっとこの点を突いてほしかった。

 

 

 

それほど、この問題をスルーした事実は文化としてのスポーツの深さという視点においては大きな足枷となる。。

 

 

 

***

 

 

 

もちろん何でもありにすると当然混乱が生じるし建前として言いたいことはわかりますが、平和と政治は無関係どころか密接。

 

 

 

政治なしにして平和は実現できないのが近代の社会構造。(戦争もだけど、、)

 

 

 

スポーツと政治ももちろん密接。

社会制度や公共設備、補助金など、本気でやろうとすればするほど、もはやスポーツは政治抜きには難しい。

今回の様々なスキャンダルで悪い方の繋がりがたくさん露出しましたが。。

 

 

 

そしてこのイベントはスポーツの取り組みが、スポーツの存在が平和に貢献すると信じるというスタンスを存在意義としている。

 

 

 

スポーツと政治と平和は紛れもなく無関係ではない。

そうである以上、もはや”政治的だから”という理由での平和メッセージの排除は自らの存在意義を否定している行為じゃなかろうか。

 

 

 

僕らが好きなことに挑戦できる大前提として絶対に欠かせないことが、社会が安定していること。

平和、という表現は少し青臭いけれど。

 

 

 

だから自分の仕事にやりがいを感じれば感じるほど、この前提との関連を感じずにはいられないのです。

 

 

 

無関係、大袈裟、めんどくさい、と断ずることは簡単です。

 

 

 

しかしそんな”安易さ””無関心さ”の集合と積み重ねの危うさはこれまで歴史が何度も証明しています。

 

 

 

僕はスポーツの持つ力を感じ、それに魅了された一人として今の立場にいると思っていますが、大きな力を持つスポーツ、それに関わるその一端を担う以上、我々は「スポーツの持つ力」の様々な側面を知っていなければならない。

力は、それそのものに良し悪しがあるのではなく、扱う者次第だから。

 

 

 

全てはパフォーマンスアップのために。

 

 

 

 

JARTA

中野 崇

 

 

 

 

追伸。

スポーツは、綺麗事だけでは存在できません。

勇気や希望を与えられることもあるかもしれませんが、無力な場合もたくさんあります。

お金だって必要です。

そんな現実を知った上で、それでも僕はスポーツの持つ力に今も魅了され、その力を社会が良くなる方向に活かしたいと考えています。

そんな話はなかなかテーマとしては出てこないけれど、そんな想いがベースになってJARTAの各種コンテンツは作られています。

 

 

まだまだややこしい社会情勢ですが、この環境に心を囚われず、逆にどう活用するか次第で大きな差が生まれる状況だと僕は思います。