14. 子供の言語/なぜママと呼ぶのか | Bokensdorfのブログ

Bokensdorfのブログ

国際結婚から考えた「隠れた構造・隠れた文化」について
加えて「世の中の仕組みは実はこうなっている」について書きます

■ なぜママと呼ぶのか


子供ができると日本の女性は家族からママと呼ばれるようになる。

夫からも「ママ」(或いは「母さん」)である。

一方、家内の家族は全員がお互いをファーストネームで呼ぶ。

家内の妹をファーストネームで呼ぶのには抵抗が無かったが、
その両親をファーストネームで呼ぶのには最初は強い違和感があった。

違和感が無くなったのは相手との個人的関係が確立して個人として話ができるようになってからである。
彼等は今では「家内の両親」ではない。

そういう立場の人と話しているのではなく、
特定の価値観を持った個人を相手に話をしているという感覚になっている。


この感覚は自分の両親や兄弟にはまったく持つ事ができない。


自分の日本人の家族は名前を持った○○○○という存在では無く、
やはり父親であり母親であり弟なのだ。

同時にそこには最初から相手に対する自分の立場も組み込まれている

それを自分の子供にも継承させたいだろうか?

家内は自分の子供以外から代名詞で呼ばれる事を絶対に許さない。
私が家内をママと呼ぶのは言語道断だし、
よその子供にも「○○ちゃんのママ」、などとも言わせない。

もっとも周りにもう日本人がいないからこういう事は起きないが。

「人は立場で生きているのでは無い。」
「肩書きが本人を代表するものでは無い。」

これは日本語の使い方と全く反する考え方だ。

その理屈は理解できるが、
それでは私は息子からファーストネームで呼ばれても平気だろうか。

または、平気であるべきなのだろうか。
それとも、
「日本語の時はお父さんと呼べ」
「英語の時はファーストネームで呼べ」息子にお願いすべきなのだろうか。


これは単に呼称の問題では無い。

人間関係についての文化の背景と言語とは切り離せないものである。

私はいつまでたっても「お父さん」と呼んで欲しいような気がする。
私をそう呼ぶのは自分の子供だけだから特別な名前に感じるのだ。

同時に、私の呼び名は「お父さん」であっても、
父親の権威や立場を示すのが目的では無く、
対当の個人としてつきあって欲しいと願っている。

それは自分の子供に対してだけそう思うのでは無く、
すべての子供達にそのようにつきあって欲しいと思っている。


息子は日本語が上達して「ママ」の他に「お母さん」を覚えた。
ママと呼んでも家内が忙しくて返事をしないでいると突然

「オカアサン!」

と大きな声を出したら家内はびっくりして息子に向き直った。

それ以来「オカアサン」は注意を強く求める時に有効だと息子は悟り、
上手に使い分けるようになった。

「ママ」と「お母さん」との間には既に違う意味が現われている。

呼ばれる側の態度が呼ばれ方で変わる事を既に見抜いているかのようである。


【続く】


友達のお嬢さん しおりちゃん 日本人
$Bokensdorfのブログ
「お母さん」と呼んでいた



ブログパーツ