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スズメの大群が譜面の音符に見える。
書こうか悩んだのだけど書きますす。

昨日、夫の上司が急性の病で亡くなられました。
夫の一回り上の方なので、まだまだお若い方です。

その方は、実は私が17年?ほど前に習っていた空手の別支部の先生で、私が通っていた道場に何度も来ておられた方です。
夫は会社で空手部員だったので、時々上司と一緒に私の道場に来ていました。
結婚式にも参列頂き、確か、乾杯の音頭もお願いした記憶があります。

私は転職後、仕事が忙しくなり、途中で空手をやめてしまい今に至りますが、あまりにも急な訃報に驚き、十数年振りに自分が通っていた道場へ、恩師に先生の訃報を伝えに行きました。

まさか、こんな形で再会するとは思いませんでした。私が通っていた道場の先生は80目前で、昨年、道場を閉館されていたそうです。

年齢を聞いて驚きましたが、17年前と変わらず、姿勢がピシッとされており、お元気そうで、空白の時間をしばらく話してました。

先生に
『〇〇先生が本日亡くなられたそうです。
明日明後日と葬儀通夜が執り行われるそうなので、先生のところに連絡が遅れては!と思い来てしまいました。』と伝えると、

少し間をおいてから、
『あぁ、そうか、、、。教えてくれてありがとう。そうか、〇〇亡くなったのか。かわいそうにのう。。。実は年月も経ちいろいろあって、数年前から〇〇とは疎遠になってた。』と言われました。

ありゃりゃと思い
『そうでしたか、余計なことを言ったかもしれず、すみません。』と言うと
『いやいや、連絡ありがとう。
そうか、亡くなったのか。〇〇かわいそうにのう。』と先生。

帰り道、何気に気になったのが
先生の『かわいそうにのう。』の言葉。
これは先生が訃報を聞いた時の本心、お悔やみだったのではないだろうか。

私たちは生きてく中で
出会いもあれば
別れもあるんだけど

モヤモヤしたままの別れも
少なからずあるだろう。
もちろんあたしにもある。

年月が経つとともに
淘汰されていく別れも
あるかもしれないが

何十年との付き合いや
濃密な関わりを過ごし
小さな歪みがだんだん大きな渦になったり
ボタンのかけ違いで
離れてしまうこともある。

夫の上司は私が通っていた道場に
高校生の時から通っていたらしい。
そう思えばいろんな歳月を先生と一緒に
過ごしてきたのも想像される。

今はネット社会で
コンビニのような
出会いも別れもあったり。

気になる人をSNSで
こっそりのぞいたりも
出来る時代になっているけど

身近な人や関わりの深い人が
この世から旅立つたびに
やっぱりふと思う。

このままでいいのかな?と。

何か長いメールや手紙を送れば!とか
そんな重苦しいものでなくても
例えば絵葉書を一枚送るとか
久しぶり1時間ほど会ってみるとか。

そんなことでモヤモヤが
時間と共に過ぎ去ることもあるのかもしれない。

死生観に触れるたび
自分の見落としがちな
『在り方』を問われているような
そんな気がします。

そして最近私の中でも大事にしたいこと
意識していきたいと心がけてること
それは
愛ある言葉を発すること。


夫の上司は仕事中に急変したそうですが
朝、家族とどんな会話をしてたのかな?
なんてことも思いました。

私が出産後、大量出血で緊急オペになった時
オペ室に入る前、最後に話した言葉は実母へ
『(こんなことになって迷惑かけて)ごめんね』でした。

今は生きてるけど
あの時もし助からなかったら
この言葉が最後だったのか、と思うと
なんだかモヤモヤします。

上の空のナマ返事
聞いてて気分を害する汚言葉
心にもない発言
不貞腐れたり
機嫌が悪くて相手にあたってしまったり

そんなやりとり
日常の中にあるよね

けど、それは本心かな??
意識したら立ち止まること出来るよね

先生が仏様になられて
死と向き合う機会に触れ
自分が大切にしていきたいことに
また気付かされました。

先生の遺していかれたことを
私たち夫婦に、そして私の生き様に
生かしていこうと、そう思います。

よく家でも話題に上がったいた方だったので
本当に寂しいです。
先生、旅立つにはまだ早いです。