小説「ランナー」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

K育英高に行かないための口実だった。成績が悪くなくて良かった。
「一応さ、N高も受けさせてくれよ。試しにさ。」
進学校受験したというんだから親は喜んだ。面子めんつ。担任の先生もいやな顔はしない。
おれは順当な普通科をゆるゆると狙う同級生に隠れて、恥ずかしいくらい勉強した。必死というやつだ。その甲斐あっておれはN高の特進科に一般合格した。したんだが。
うすっぺらい合板に受験番号(おれのことだ)を見つけたときの、胸糞悪さ。バスタブ一杯の言い訳を飲み込んだような自己嫌悪。
おれは陸上を続けると周囲に対し行った宣言から逃げたのだ。
おれが難関に通ったと言って親は喜んだ。
「スポーツは必ずなにかしろ。」
と小学生のころから父親に言われていた。
「勉強はいくらやっても才能だ。才能がない奴にはどうあがいてもしかたがない。勉強の才能のない奴がどんなに勉強しても、楽しんで勉強することは出来ない。しかしスポーツなら、才能がないとしても少なくとも楽しむことは出来る。」
というのが、彼の持論だった。
おれはルールを覚えたり、人に気を遣うのが面倒だったから小学5年の時に地域の陸上クラブに入った。特に体を動かしたくはないけどとにかく体を動かさなくてはいけない時、一番適当なのはひたすら走ることだ。
おれはどうも、才能はあったらしい。6年生の時に東部地区の小学生大会で2位になった。800m走。小学生の最長距離種目だった。
「お前は中学に行ったら中距離をするといいのかもしれないな。」
陸上クラブでコーチをしていた先生がそういった。おれは実際いい気になっていた。
おれは陸上の才能があるから、手を抜かなければ中学でも表彰台を狙うことができるんだ。まったく容易く。疑う要素がないんだから、おれはこのことを疑いもしなかった。
しなかった、で、過去形で終わっているんだから、当然容易くなんかなかったのだ。
陸上部の1500m専攻に入ったおれは、小学生の時と段違いの走行距離に初日でびびった。
距離だけじゃない。内容も複雑になっていた。持久力を体に叩き込むために、全力で200m、その後1分間のペースで200、さらに全力で200。これを延々繰り返すのだ。おれは震え上がった。こんなことを毎日するのかと。
K育英はこの近隣で一番陸上が強い高校だ。一定以上走りこめるやつはみんな行きたがる。スポーツ主体の高校だから受験もたいして厳しくない。同じ部の3年で、レギュラーに入っているやつは一人残らず受験していた。
おれも一応はレギュラーだった。かなりうさんくさいレギュラーだったとはいえ。
一学年から5人選出のぎりぎり5番だった。
中学時代、思うように体が出来ていかなくて、メニューをこなすのがやっとだったおれは、さらに高校で今以上にきつい練習に耐える自信はこっれきりもなかった。だから逃げたのだった。
逃げたことに関しては、現実に尻尾巻いて背中向けたのは、これは人生初のことだった。おれはそのことを、それなりに恥じた。
高校に入って、5月の連休。
おれは家の近所の運動公園に暇つぶしに出かけた。走りに行くつもりだった。
3年部活やって叩き込まれているから、しばらく走らないとなんか、体が妙な具合になるんだ。もう必死になってタイムを上げようと思う必要はないんだ。気楽に走ってこようと、おれは思った。いかにも、
「ぼくは本職のランナーじゃないんです。」
って見えるくらいのウェアで出かけた。
運動公園は巨大だ。ちょっとした一区画分くらいは有にある。池とか噴水とかこどもの遊び場なんかが点在して、その間を縫うようにランニングコースが敷かれている。もちろん陸上トラックと体育館とテニスコートと、プールと野球場とサッカー場がある。ちょっと遠くなるけど武道館もある。市内のスポーツイベントは、時間やタイミングが赦すならまずここで開催される。
おれは2k周回のコースを走ることにして、腕時計のアラームをセットした。まあキロ4分くらいのペースだな。
かがんで靴紐の様子を確かめていたら、後ろから顕かに違う空気を連れた「群れ」の影が迫ってきた。
高校の陸上部だ。そのことに気が付いた時、
罵声が跳んだ。
反射的に身をかわすと、罵声はおれにじゃなくて、先頭集団のラップが落ちていることに対してだった。時計と温度計の付いた柱の影に、土器みたいな顔した中年の先生が立っていた。なんとか! と先頭を行く生徒だろう。怒鳴る。
お前が全体引っ張るならここでタイム落としてどうするか!
そういうようなことを怒鳴っていた。
怒鳴られたせいかそのなんとか、くんのペースが若干上がる。他の部員も遅れまいと食い下がる。
20人ほどの男子陸上部だった。なんで人数が分かったかと言うと、なんとかくんが率いた5,6人に遅れて、2軍チームの部員たちがおれの横を走り抜けていったからだった。
顧問の先生も彼らには優しい。
腕振りなまけんなあ
とか
ほらほらまだ5週だぞ
とか口調が温い。もちろん優しいんじゃないんだ。期待していないのだ。
そして最後尾の一人がやっとのことで通り過ぎていった。なんとかくんはすでにはるか先だ。
1年だったのかもしれない。しかしおそらくすでに力の差がはっきりしてしまっているんだろう。顧問はぜいぜいいいながら必死で自分のノルマをこなそうとしている彼に、声を掛けるのはおろか一瞥も与えなかった。かなりばてて、首が左右に振れたりしながらも、走っていく彼を見送りながら、おれが感じたのはなんだったのか。
すごく妙な感覚だったんだ。何ていえばいい。
人ごみで。しりあいだと思って声を掛けたのが全然知らない人だったときみちたいな。いや、違うな。でも類するような気まずさだ。
今走って行ったのは、おれだ。
正確に言うなら、平行世界のおれだ。
K育英に行ってたらおれもああなっていただろう。どうなっていたのか。
おれは彼の背中の汗腺から、汗じゃなくて黒い湯気みたいなものが上がっているのを確かに見たのだ。そういう感じだった。
憎悪。
彼は憎悪していた。走っていること、走らされていること、走れないこと。
状況にも他人にも自分にも、自分と言うなら履いている靴にもランパンにも、振れない腕にも上がらない足にも、なんでもかんでも憎悪を感じていた。そりゃ酷く。
おれは、こういっちゃなんだが自分が正しい選択をしたんだと思った。
それを認めることは、決まった敗戦をなお悪い形で負けるようなもんだった。逃げたんだった。後ろ指さされるのをびびっているんだ。しかしおれはどうしても思うのだ。
あんなになるくらいなら、高校で陸上をしようと思わなくて良かった。おれは昔から父親に言い聞かせられて、頭の隅くらいにならいつもあるあの台詞を打ち消す。
おれは、どんなに努力しても、自分のために楽しんで走ることは出来ない。彼をみて確信したのだ。
おれの背中がすでに憎悪を背負っているのだから。