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あなたの中の天皇陛下のイメージが変わる、33の厳選エピソード
http://virates.com/society/3318826


平成時代の今上天皇(きんじょうてんのう ※現在の天皇の意味)は、これまでの伝統を守りつつも、時代の流れに合わせて柔軟に対応される姿が数多く見受けられます。

これまでの皇室の前例にとらわれない天皇陛下にまつわる厳選エピソードを紹介します。


■成婚のパレード(1959年4月)
成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価だったテレビも普及しはじめた。明治以降では初の民間出身の皇太子妃であり、国民的な「ミッチー・ブーム」がおこった。



■若き日の天皇、皇后両陛下(1962年)
長野県志賀高原での天皇、皇后両陛下。最近、この写真がまるでジブリ映画『風立ちぬ』の一場面のようだと話題になった。



■第一子誕生(1960年2月23日)
第一男子、浩宮徳仁親王が誕生。皇居御殿内の御産殿で出産されるべきところ、それまでの慣習を破って皇居内の宮内庁病院でのご出産を望まれた。

■親子が一緒に寝る家庭を
天皇陛下は、「親子3人が川の字になって寝るような家庭をつくりたい」と話され、皇室の慣例になかった親子同居を決意された。さらに、これまでの慣習であった専任の養育係を置かないことを決めた。

■皇位継承の儀式により即位(1989年1月7日)
昭和天皇の崩御により、55歳で第125代天皇に即位された。元号法に基づき、「平成」に改元した。即位後の朝見の儀にて、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との勅語を発した。



■歴代天皇で初めて、床に膝をついて避難民を見舞った(1991年7月)
長崎県の雲仙普賢岳噴火の際に、避難民を床に膝をついて見舞った。膝をついて被災者と直に話をするスタイルは今上天皇が皇太子時代にはじめたことであり、それまでは天皇が国民の前で膝を曲げることはありえなかった。
このスタイルはその後も続いており、皇后陛下や皇族も被災地慰問の際にはこれにならっている。



東日本大震災にてビデオメッセージを送る(2011年3月16日)
東日本大震災の発生において、国民および被災者に対しビデオメッセージを放送した。天皇が国民に対して直接放送を行うのは、昭和天皇による1945年8月15日の玉音放送以来だった。メッセージは以下の言葉で締めくくられた。
「国民一人ひとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」
http://youtu.be/f2r0BiguXxI


■自主停電を行う(2011年3月)
皇居がある千代田区は、東日本大震災に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした。

■東日本大震災の被災地を訪問(2011年3月以降)
各地の避難所を皇后陛下とともに歴訪して、励ましの言葉をかけた。



■イラク派遣隊員らをねぎらう(2006年12月)
テロ対策特措法とイラク人道復興支援特措法に基づいて派遣された自衛隊員ら約180人を、皇居・宮殿に招いた。「国際的な協力に参加し力を尽くしてこられたことを、誠にご苦労に思います」とねぎらいの言葉をかけた。



■白鵬に気遣いのメッセージを送る(2010年8月)
天皇陛下が白鵬に書簡を送った。力士たちの野球賭博が発覚したことで、賜杯の表彰を辞退し涙を流した白鵬を気遣った内容だった。白鵬は、「こんなにうれしいお言葉はない」と喜びをかみしめた。



■阪神・淡路大震災で(1995年1月)
地震発生から2週間後に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と被災者たちを励ました。涙を流した被災者もいたという。



■アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領にお見舞いの言葉を送った。天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉をおくったのは前例のないことだった。
それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。



■火山ガス発生の恐れの中、三宅島を慰問(2006年3月)
2000年に噴火した三宅島。島民の帰島が叶った2006年に、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず三宅島を慰問し、島民を励ました。



■新潟県中越沖地震(2007年8月)
現地に赴いて避難住民らを訪問し、お年寄りらに語りかけて励ます。また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。



■サイパン島訪問(2005年6月)
サイパン島訪問の際には、多くの日本人が身を投じたバンザイクリフやスーサイドクリフを訪れた。天皇が慰霊だけを目的に海外訪問をしたのは、これが初めてだった。
また当初の訪問予定に含まれていなかった沖縄出身者の慰霊碑「おきなわの塔」、朝鮮半島出身者の慰霊碑「韓国平和記念塔」にもそれぞれ立ち寄った。国家の枠にとらわれずに、先の大戦において命を失ったすべての人々を追悼するという思いがこめられている。



■「くまモン」と面会(2013年10月)
くまモンが東日本大震災の被災地支援など様々な活動をしていると説明を受けると、天皇陛下は「ご苦労様です」、皇后陛下は「ありがとう、くまモンさん」と笑顔で声をかけられた。皇后陛下からの「くまモンはお一人でやっているのですか?」の質問にくまモンが慌てる一幕も。



■明治天皇へ直訴を行った田中正造の出身地へ(2014年5月)
足尾銅山からの鉱毒被害の拡大を防ぐために設けられた渡良瀬遊水地や、鉱毒被害を告発した田中正造の出身地、佐野市をめぐった。田中正造は、1901年12月10日に鉱毒事件について明治天皇に命がけで直訴を行い、警官に取り押さえられ叶わなかった。両陛下は佐野市の市郷土博物館で直訴状の実物を見学され、明治天皇の時代から実に113年後に田中正造の直訴状が陛下の元に届くこととなった。



■パパブッシュにテニスで勝利(1992年1月)
アメリカの大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際に、皇太子徳仁親王とペアを組んで、大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで対戦した。2回対戦し、2回とも勝利している。

■沖縄訪問(1993年4月)
歴代天皇として初めて沖縄を訪問し、沖縄戦の沖縄県遺族連合会の代表一人ひとりに声をかけた。皇太子時代に沖縄訪問された際には、過激派のメンバー2人から火炎瓶を投げつけられる「ひめゆりの塔事件」が起こっていた。



■さかなクンと歓談(2009年10月)
東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは「皮膚の一部」ということでハコフグの帽子を被ったままであったが、陛下はこれを非礼とすることはなかった。



■障害者福祉を前進させる(1964年)
1964年東京五輪の後に行われたパラリンピックでは、当時皇太子だった天皇陛下が名誉総裁を務め、「このような大会を、国内でも毎年行なってもらいたいと思います」と述べた。この言葉がきっかけとなって、1965年より国体に合わせて身障者スポーツ大会が開催されるようになった。
日本身体障害者団体連合会会長の小川榮一氏は、「両陛下のおかげで障害者福祉が大きく前進したといっても過言ではありません」と述べている。



■英王室との親しい間柄(2012年5月)
エリザベス女王在位60周年での祝賀昼餐会にて、天皇陛下の席はエリザベス女王の左隣。女王の右隣はスウェーデン国王で、その横に皇后陛下が座られた。



■オバマ大統領と昼食会にて(2009年11月)
オバマ大統領初来日の際に、両陛下と握手をして「お会いできてうれしいです。大変光栄です」と述べて何度もおじぎをした。両陛下も笑顔で大統領を出迎えられた。



■天皇の役割は時代とともに変わっていく(1998年12月)
「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
誕生日に際する記者会見にて

■韓国とのゆかりについて発言(2001年12月)
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」
「残念なことに、韓国との交流はこのような(文化的)交流ばかりではありませんでした。このことを私どもは忘れてはならないと思います」
「それぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えます」
物事を国家レベルで考えず、平和を希求するために必要なことは国の枠にとらわれずに発言される。
誕生日に際する記者会見にて。

■沖縄の歴史をひも解くことについて(2003年12月)
「私にとっては沖縄の歴史をひも解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです」
誕生日に際する記者会見にて。

■学校での国旗掲揚について(2004年10月)
「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。

■過去の歴史について(2005年12月)
「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
誕生日に際する記者会見にて。

■北朝鮮拉致問題について(2009年11月)
「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
即位20年に際する記者会見にて。



■戦後からの歴史について(2013年12月)
「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
誕生日に際する記者会見にて。


■天皇という立場は孤独なもの(2014年12月)
80歳の誕生日に、美智子さまへの深い愛情と感謝を語った。
「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」
80歳の誕生日に際する記者会見にて



■東日本大震災の記憶を決して忘れてはならない(2014年3月)
「被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています」
東日本大震災3周年追悼式にて。



【番外編】
日本最古の知的障害者のための社会福祉施設「滝乃川学園」訪問時のものと見られる画像。トランポリンをしていた同園の子どもが美智子様に抱きつくというハプニング。笑顔で抱きしめる皇后陛下。