幼い頃からキリスト教に触れていたので、物心がついた時にはすでに「祈り」と共にありました。
三つ子の魂百までもというけれど、植え付けられたのか、もともと持っていたのかと思ったりしましたが、祈りとは、する行為ではなく、湧き起こってくるもの、それしか残らないというのが、今まで生きてきた中で感じたことです。

みつろうさんのブログから、さだまさしさんの「風に立つライオン」を歌ったと知り、私もいつも心にある曲なのでとても嬉しく思いました。

この曲は実話から生まれており、さださんはこの曲を作るのに15年の歳月がかかりましたと回想されています。

共感した多くの方々が医療の道をめざしたり、国内海外の協力隊に向かわれたりしています。

人は運命という名のもとに様々なことが起こりますが、とことんまで行き着くと、他者への幸せを祈るようになるように思います。

そう湧き起こってくるんですね。
他者への祈りは同時に自分への祈りにも繋がり、ひとつになっているように感じています。

自分に余裕のない時はエネルギーも枯渇しがちで他者へは向かえない。そんな時は周りから助けてもらっていいと思うし、お互いに助け合うというか、それで一つの調和ではないでしょうか。


風に立つライオンを知ったときは、発酵や冷えとりに出合い、病いの回復途中でした。

以前、ブログにも書いたのですがさだまさしさん もう一つの「風に立つライオン」


歌詞の中の

 

 

『この偉大な自然と向き合えば 神様について 人について 考えるものですね』

 

『何より 僕の患者たちの 瞳の美しさ』

 

とても共感しました。

偉大な自然とは、いわゆる山とか木とかの自然というだけではなく、森羅万象を現している全ての営み、人も含めて全てではないかと思っています。
どうしようもない運命のもと最後に残るは純粋さで、純粋になった時にはじめて生かされていること、ずっと偉大なものに抱かれ守られてきていることを知るように思います。

 

純真無垢で生まれてきた子供たちの目はいつも透き通っているし、患者たちは体が不自由になった分だけ心の目で見るようになります。例え心が病んだ人でさえ、策略している人の目よりきれいです。

しかし策略している人でも、ずっと奥を辿っていくと、純粋なところに行きつきます。

誰もがそれを一度も失っていないと思えるのです。

それでも表面上に覆われたもので翻弄されます。
そこを取っていけたなら。
自然の営みを見ていれば、学ぶことは多くあるのではないでしょうか。



時々、祈りより行動だと聞くことがありますが、祈りは人知を遥かに超えたエネルギーが発動し、予想を超えた広がりを見せたりします。そして実際に物事が動いていくことがあります。

 

 

今年の9月23日、秋分の日は『天空の祈り』を東京新宿で開催されるそうで、1800人規模になるそう。

https://ameblo.jp/mitsulow/entry-12388909657.html

 

今回は天河神社の宮司様もご一緒とのことで、一緒に祈らせていただこうと思います。
お申し込みが今日の9:00とのことです。
https://business.form-mailer.jp/fms/3bb3f8d990166


祈りは全てのものと繋ぐことかもしれない。