とりあえず自分の部屋へ戻った。
顔を洗い部屋着に着替え、肩まである髪をとかす。
 『さて、化粧はどうしたものか…。』
30秒程考えて、必要ない事を悟った。でも何故か、ピンクの口紅を薄くひいてみる。
鏡に映る自分の顔をまじまじと眺めながら、小さな声で呟く。
 
 『まだ、いけてるほうじゃん… 私。』 …と、知人の一人を思い浮かべながら、ひとときの自己満足。
 
「雪ちゃ~ん、降りてきて!」
 
また母が下から叫んでいる。
この人の娘である事を再確認した私の自己満足は、粉々に砕け散った。所詮、きっと蛙の子は蛙なのだ。
母の甲高い<雪ちゃ~ん>を、もう聞かなくていいように急いで階段を駆け降りた。
 
テーブルでは三人が、まるで家族のような雰囲気を醸し出している。
私は自分の定位置に腰を降ろしたが、なんと田中さんと向かい合わせになってしまった。
 
「あなたも、ビールでいいかしら?」
田中さんの目の前に用意されたグラスへ、母が瓶ビールを傾けようとした。
 
「いえ、今日は車ですから…。」
 
「あら、そうだった!飲んじゃったら駄目なのよねぇ…」
 
ちょこっと舌先を出しながら両肩をすくめ、おどけた顔をしてみせた。
こんな少女っぽい母の仕草を見たのは、どのくらいぶりであろうか。
 
 まだ弟が学生だった頃は、私と弟の雑談で食卓もえらく賑わったものだ。
父や母には笑顔があり、私はそれを心地良く感じていた。
 しかし、やがて彼も大学を卒業し大手建築会社の営業マンとして大阪の支社に就職してしまったのである。
それからというもの、仕事が忙しいとか休みが取れないとかで弟の帰省は年に数回程度。
事実上、三人家族となってしまった。
 
 あれから四年…。弟が居なくなった今では、母親の愚痴と父親の溜め息が… 食卓を暗くする。
少なくとも私にとっては<居心地の悪い家>となってしまったのだ。
 
テーブルに田中さんが一人増えて、今日は久しぶりに四人での食事となった。私達は彼を、まるで弟の身代わりのように感じているのかもしれない。
心なしか、父親も珍しく嬉しそうにビールを飲んでいる。今日は我が家の風向きが些かポジティブになっているように思えた。
 
「泊まっていけばいいじゃないか。」
そう言って父が、グラスにいっぱいのビールを一気に飲み干した。
 
「そう、それがいいわね。拓海の部屋があるし…。」
 
大袈裟なほど喜ぶ母の満面の笑顔。それが田中さんの『帰ります』の言葉を抹殺したのは間違いない。
 
「でも、息子さんの部屋を使わせて頂くのは申し訳なくて、気が引けます。」
 
ただの断り文句か、それとも本当に恐縮して出た言葉なのか。
私は“洋風煮物”を食しながら、そっと彼を観察した。
 
「自分の部屋なんて所詮寝るだけなんですけど、それでも僕はこだわりを持っています。自分だけの大事な空間ですから…。」
 
『見た目は優しそうなくせに、なかなか芯は強そうかも…』
 
「田中さんて、おいくつなんですか?」
 
私は彼の目も見ず、わざと事務的に質問した。
少なからず、彼に興味がある事に気付かれたくなかった。
 
「雪さんより3つ下です。」
 
「じゃ、31?」
 
「いえ、32です」
 
「失礼ですが…、私まだ34ですけど!」
 
1つでも歳を間違えられるというのは女として… いや、唯一喜怒哀楽を持ち併せている哺乳類としても、かなりムカつく発言である。
 
「失礼しました。 もうすぐ35歳になられると、係長から聞いていましたので。 それに冬ですし…。」
 
「えっ、冬に何か意味でも?」
 
私は素直に疑問を感じた。
 
「お名前が雪さんなので誕生日が冬かと…。あっ違いましたか!」
 
「いいえ、夏です。 八月の真夏までは、まだ34です。」
 
私は何だかムキになってご飯やおかずを頬張った。
田中さんは気まずそうに、ちびちびビールを飲み始めた。今夜はうちに泊まる気なのであろうか。
やっぱり、性格までいい訳がない。結局は笑顔が爽やかなだけ。
彼も繊細さに欠ける普通の男だったって事。
 
自分の予想が的中した安心感と何故か込み上げてくる腹立たしさで、私はグラスのビールを空にした。
そして、それまで経験した事のないような複雑な気分で、彼の性格を一層深く想像してみるのである。
 
 
                 ~次回へ続く~