お風呂上がりの父は、首にタオルをかけパジャマ姿で私の傍を横切った。
冷えた牛乳パックを冷蔵庫から取り出し、それごとゴクゴク飲みながらテーブルの私の隣りに座った。
 
毎度見る光景である。
 
『とりあえず、その牛乳は飲めなくなった…』
 
見る度に『口飲みは辞めてくれ』 と何度言ったであろうか。
 
私の言う事なんて聞いてはくれないと分かっている。
しかしそれを許すと、冷蔵庫の中の物に直接口を付け、手当たり次第に飲み食いしかねない父を見過ごす訳にはいかない。
いくら親子でも父との間接キスなど、私の中では有り得ない。
 
きっとこの人にはグラスもお皿も必要ないのかも… と、ふと父にイラつく。
だから、いつまで経っても私は”結婚”に夢が持てないのだ、と父のせいにしてみる。
 
どうでもいい事やどうにもならない事に今夜は、やけに腹が立つ。
何故、田中さんはこんな人を重要視するのだろうか。
特別優れたところもなく生活態度も、いわゆるただの”おっさん”である。
 
そうやって心の中で父を見下し、ちょっとだけ自分を優位な立場に持っていく。
今から始まる親子会議に少しでも自分の気持ちが有利になれるように…。
 
こんなコソクなやり方をするとは、
自分が人のいい、ただの”おばさん”ではない事を証明しているようなものだ。
 
 
「雪も、飲むか?」
 
父は手に持っている、その牛乳パックを私の前に差し出した。
 
『ご冗談でしょ!』 と思いつつ
 
 
「ううん、今はいらない。」
 
… と優しくお断りした。
 
 
いつから、こうなってしまったのか。
 
まだ私が子供だった頃は、仕事から帰って来る父をひたすら待った。
眠い目を擦りながら…
死ぬほどの睡魔と闘いながら…
 
『雪ちゃん、ただいま』 の父の一声が聞きたくて。
 
まるで遠距離恋愛中の彼氏との再会を待ちわびる、健気な恋人のように。
 
父は、私の憧れであった。
ある時期までは・・・。
 
 
私が高校三年に進級して、すぐに父に言われた事がある。
 
『お前は女の子だから、進学する必要はない。』
だから拓海に大学に行かせてやりたいんだ、と。
   
バイトでも何でもするから、自分も大学に進学したいと、私は両親に懇願した。
 
しかし、その願いは叶わず…。
 
 
『二人も進学させるのは経済的にも無理だ』 と、母は涙を流して私に頭を下げた。
 
それに対し父は『金の無駄遣いになる』 と、私に冷たく言い放って背中を向けた。
 
その事があって以来、私は生理的に父を受け付けなくなってしまった気がする。
大学に行かせてくれなかったからというより、女性に対する父の尋常ではない差別的な古い考え方。
そして、私よりも弟のほうに愛情があるのだろうという娘としての嫉妬と絶望感。
 
もし父が、あの時私に一言『すまない』 と言ってくれていたら…。
すべてとは言わなくても、自分が置かれていた境遇に少しは納得できたかもしれなかったのに。
 
 
でも何故今頃・・・。
ずっと忘れていた、こんな昔の事を思い出すとは。
 
 
いや、思い出したんじゃない。
きっと、私の胸の奥深くに刺さったままだったのである。
魚の骨が喉に刺さって、痛みと不安で歪んだ表情をした子供のように。
そんな得体の知れない違和感に私は、ずっと戸惑っていたのかもしれない。
 
自分自身と向き合うとは、人と喧嘩するより遥かにエネルギーが要りそうだ。
 
頭の奥にある”無意識”という小さな箱に、人知れず納めておいた自分のコンプレックスやトラウマ。
それを意識的にわざわざ引き出すのは、かなり勇気がいる。
あまり深いところまで自分を追っていくと、精神の破滅が待っている可能性もある。
 
ここは、あまり深追いしないほうが得策のような気がする。
 
 
「最近は、どうだ?」
 
「うん、まあまあ」
 
意味のわからない父の問いに、やはりあやふやな返事を返す私。
 
 
「お母さんて昔、私の知らない間に入院した事あったっけ?」
 
私は、唐突に父へ疑問を投げ掛け反応を伺ってみた。
 
 
「どうして、どうして今頃そんな事を聞くんだ?」
 
父は穏やかに、そしてゆっくりと私に聞いた。
まるでライオンに狙われ、覚悟を決めた鹿のように…。
 
 
それから数分間、私たちは無言になった。
父の口から次の言葉が出てくるまで、私は待つつもりだ。
 
 
慌てなくても… 私と父の対決は、まだ始まったばかりなのである。
 
 
 
 
 
 
                ~次回へ続く~