中央アジア諸国の民主化と東トルキスタン独立運動 | Turmuhammet(トゥール ムハメット)のブログ

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東トルキスタンは、テュルク(突厥)系民族が居住する中央アジアの地域、すなわちテュルクの土地を意味するトルキスタンの東部地域を指す地域概念。現在では中華人民共和国に占領され“新疆ウイグル自治区”と呼ばれる。“ウイグル”とも呼ばれる。

著者:トゥール ムハメット

 政治、経済、軍事的に戦略的な位置を占める中央アジア 地域(本文では西トルキスタンと呼ぶ)は19世紀 から帝政ロシア 、大英帝国および清国の勢力争いの場として、結果的にロシアの植民地となり、1991年旧ソ連が崩壊するまでは、ほとんど国際政治には独自の影響力を及ぼすことはなかった。旧ソ連が崩壊し、カザクスタン、ウズベキスタン、クルグズスタン、タジキスタン、トルクメニスタンなど5カ国が独立を果たしてから、国連に加盟し、徐々に国際舞台に現れてきた。民族的、宗教的に直接繋がりのある西トルキスタン諸国の独立は、一世紀以上中国 の植民地支配に苦しむ東トルキスタン国民に未曾有の希望を与え、中国共産党政権の圧制の下で沈黙を保って来た東トルキスタン独立運動は一気に活発化になった。しかし、時間の経過に伴い、東トルキスタン国民は西トルキスタン諸国の振舞いに失望し始めた。その主な原因は①独立を果たして15年経っても、西トルキスタン諸国の民主化は進まず、大統領個人を中心とする独裁政治が続いていること、②国民の基本的政治権利が認められず、大統領と異なる政治を主張する個人や団体は弾圧を受けていること、③法体制が整っていなく、贈収賄が国中に蔓延していること、④支配層は目の前の利益にとらわれ、中国の圧力に屈し、東トルキスタン独立運動を弾圧する政策を取り始めたことなどが挙げられる。特に、中国が中心的役割を果たしている所謂“上海 協力機構”は国際的反テロ情勢を利用し、西トルキスタン諸国を東トルキスタン独立運動を封じ込む殺陣に変えてしまっている現実は特に失望的現象である。一方で、“9.11”以降、アメリカ は西トルキスタンに軍事基地を設け、影響力を強めることに伴い、西側諸国は中央アジアの民主化に関与し始めた。その証としてクルグズスタンでは長期にわたるアカエフ大統領の独裁政治を履返し、初めて民主的選挙によって新政権が発足することができた。

 歴史的に、西トルキスタンと東トルキスタンは運命共同体的存在であった。10世紀初期頃から13世紀の初期まで、東西トルキスタンを支配していたのはチュルク系(突厥)ウイグル・ヤグマ・カラルク部族を中心とするカラハーン王朝(840~1212年)だった。13世紀は、モンゴル帝国の征西活動に伴い、東西トルキスタンはチャガンタイ王子の領地となり、およそ15世紀まで、東西トルキスタン王系は主にチャガンタイの子孫だった。15世紀中ごろから16世紀にかけて、ウズベク、カザク(カザフ)、オイラト、クルグズ(キルキズ)などの遊牧民が勢力を伸ばし、ウズベク族を中心とするシャイバニー王朝とウイグル族を中心とするセイーディヤ王朝が東西トルキスタンの内在的統一を保っていた。1758年、東トルキスタンは清帝国の属国になってから、西トルキスタンのホーカンド王国は異教徒の支配下にある東トルキスタンの独立闘争を支援し続けた。1870年に東トルキスタンは清朝からの独立をはたしたが、西トルキスタンは既にロシアの植民地になり、後援を得ることを完全に失った東トルキスタンは、1878年に再び清朝に占領されたのである。言うまでもなく、1944年成立した“東トルキスタン共和国”も、その影響が西トルキスタンに動揺を与えると恐れたスターリンによって、指導層が集団で殺され、政権は中国共産党に引き渡された。

 このように、西トルキスタンで起きたできことは必ず東トルキスタンに波及し、東トルキスタンでの変革も必ず西トルキスタンで反響を呼んでいた。

しかし、現在の西トルキスタン諸国の情勢は人々を憂慮させる。

1.カザクスタン
豊富な石油資源と広大な国土を有するカザクスタンは外資 を積極的に導入するために市場経済を実施しているが、政治システム はナザルバエフ大統領の個人独裁によって運営され、本当の意味での野党勢力が存在しない。大統領や与党“祖国党”の政策に反論を訴える人物は暗殺されるか、投獄される運命になっている。カザクスタンの情報やメディア システムはナザルバエフ大統領の長女ダリガ・ナザルバエフにコントロールされ、言論の自由は未だに認められていない。つい最近、カザフスタンで人気の高いある政治評論家が自宅で何者かに殺されていた。

カザクスタンの経済成長率は毎年8%以上になっているが、その恩恵を受けているのはごく少数の支配階級に過ぎず、多くの国民は依然として貧しい生活をしている。経済活動を行う上では、政府機関の役員や職員にさまざまな賄賂を渡さない限り、その活動は正常に行えない。外国企業の進出も政府高官への贈賄で成立ち、そうでなければ殆ど不可能である。

対中外交において、カザクスタンは“上海協力機構”のメンバーとして、中国との友好関係を築き、東トルキスタン独立運動対して中国の封じ込み政策に協力している。カザクスタンに活動基盤をもつ“東トルキスタン解放組織”は非合法政治結社として弾圧を受け、完全に地下組織に追い遣られた。カザフスタン国籍をもつウイグル団体は殆ど中国の東トルキスタン支配に異議を主張しないことを前提に認定されるようになっている。そして、カザフスタン政府は国際的非難にも関わらず、東トルキスタンからの亡命者を中国に強制送還し続けている。

2.クルグズスタン
 西トルキスタン諸国の中で唯一“オレンジ 革命”が成功した国として国際的に注目されている。しかし、政治情勢が流動的であり、政権の基盤は衰弱と言いざるを得ない。議会や政府は新しい憲法の策定に着手し、一層の民主化を促す法整備はこれから進められるでしょう。

 クルグズスタンには鉱物資源の埋蔵量はかなりあるが、政情が長く不安定だったため国際資本の投入は進まず、経済の発展にそれほど寄与していない。農業 、牧畜業もこの10年間はマイナスの成長を続け、国民生活は非常に苦しい状況にある。

 対中関係においては、アカエフ前大統領時代の中国寄りの政策が改められ、西側重視になっているが、地理的に中国に隣接し、国力も衰弱なため、中国の意向に背くことは国益にならないため、“上海協力機構”にメンバーとして留まり、中国との友好協力関係を続けている。東トルキスタン独立運動に対して、現政権は少し目を瞑るようになってはいるが、具体的対応策が明らかになっていない。

3.タジキスタン
 西トルキスタン諸国の中で政治、経済、社会情勢がもっとも不安定な国はタジキスタンである。独立直後から勃発した内戦で政治、経済システムは崩壊し、15万人が命を失った。国の経済は殆どロシアに出稼ぎに行っている十数万に及ぶ労働者の送金や、ケシ栽培から採れるヒロイン の不法貿易に支えられ、国の防衛はロシアの駐留軍に任されている。

4.トルクメニスタン
 豊富な天然ガス埋蔵量を誇るトルクメニスタンは西側諸国から北朝鮮と同様に“鉄のカーテン ”で閉ざされている独裁国家であると非難されている。現大統領サパルムラト・ニヤゾフは対外開放を拒否し、国家の政治、経済、軍事、司法、教育、文化などのすべての権限を手中に握っている。 トルクメニスタン議会もニヤゾフ大統領の操り人形に過ぎない。演劇などの文化活動は禁止され、女性の大学 進学 も許されない。最近は地方の病院までが閉鎖され、首都アシュハバードの国立病院だけが患者を受け入れることが許されていると言われる。

独立直後、ニヤゾフは自らを“トルクメンバシ(トルクメンの首長)”と宣言し、その後は議会を動かし、“トルクメニスタンの終身大統領とトルクメン人の預言者”という決議案を採択させた。ニヤゾフのこのような愚行は国際的に非難されても、彼はそれを完全に無視し、引き続き独裁政治を行い、反対勢力を容赦なく厳しく弾圧して来ている。

5.ウズベキスタン
2240万人の人口を抱えるウズベキスタンは西トルキスタンの人口大国であると同時に、貧しい国の一つでもある。この国でも、旧ソ連共産党ウズベキスタン共和国書記長だったイスラーム・カリモフ大統領の個人独裁が続いている。独立直後形成された野党勢力は、1995年からカリモフ大統領の厳しい弾圧を受け、なくなっている。その指導者たちも殺害や投獄の難を逃れ外国に亡命している。

西トルキスタン諸国の中で、ウズベキスタンは唯一市場経済原理を実施していない国である。国際金融 機構はウズベキスタンが市場開放を拒否したため、国際融資 を未だに停止 している。カリモフ政権は外資の導入にも消極的であって、さまざまな制限を設けている。その原因として、ウズベキスタンの豊富な石油、天然ガス、金鉱などの資源はカリモフやその側近達に独占されていると指摘される。

9.11以降、ウズベキスタンはアメリカアフガニスタン 作戦に協力し、軍事基地を提供した。その見返りとして、アメリカはカリモフ政権の延命術に対して黙認して来た。カリモフはアメリカの黙認を利用し、国内の反対勢力に“国際テロ組織”のレッテルを貼り、厳しい弾圧を与えて来た。

ウズベキスタン国内において、最大の反対勢力は“ウズベキスタンイスラーム運動”と“ヒズブ・タフリール(イスラーム解放党)”であったが、9.11事件後アメリカはこの二つの組織をアルカイダとタリバーンと繋がる“国際テロ組織”と認定した。これを利用し、カリモフはこの二つの組織やそのほかの野党勢力をウズベキスタンから一掃するのに成功したのである。数千数万の人々はこの残酷な弾圧の中で殺害されたり、投獄されてきた。その顕著な事例として、最近ウズベキスタンのアンジャン州で起きた住民大量虐殺事件が挙げられる。

 注意すべきことは、9.11以降アメリカを中心とする西側諸国の西トルキスタン政策には戦略的変化が見られる。例えば、1991年旧ソ連が崩壊した後、西側諸国は西トルキスタン諸国がイランやアフガニスタンのような反西洋的国家にならなければ良いとしていた。その一方で、西側諸国は西トルキスタンの豊富な石油、天然ガスや鉱物資源に興味を示し、旧共産系政治指導者が国家政権を牛耳っている政治を改めることを望んでいた。従って、西トルキスタン諸国の最初の民主選挙では旧共産系政治指導者に代わって、西側寄りの政治指導者の登場を応援した。しかし、旧共産勢力は表面上西側の意向に従った民主的選挙を行う振りをし、実際には反対勢力に対して買収、脅かし等の政治手法を利用して封じ込み、政権を獲得した。一方、1992年から2000年までのクリントン 政権は旧共産勢力が西トルキスタンにおけるイスラーム政党や民族主義政党に対して強行策を取っていた事実に対してあまり反応しなかった。その原因として、クリントン政権は西トルキスタン諸国にイスラーム政権や民族主義政権が現れるよりも、旧共産勢力政権をそのまま温存した方が上策であると考えていたかも知れない。

 ブッシュ政権になってから、クリントン政権の傍観政策を改め、西トルキスタン諸国を自らの影響域に入れ、政治、経済、軍事面における影響力を強めながら、第一段階としてまずイスラーム原理主義者や国際テロ組織を排除し、第二段階では西トルキスタン諸国をロシア中国のような大国の影響から引っ張り出し、第三段階では徐々にこの地域に近代的民主主義国家を築き、政治的、経済的に新しい民主主義の西トルキスタンを創っていくのではないかと思われる。アメリカのこの戦略的プロセス と協力するように、欧州連合も西トルキスタン諸国に対して緊急に動き出ている様子も伺えられる。例えば、欧州の人権擁護団体らの激しい反対を押切り、欧州発展開発銀行 の2003年年次総会はウズベキスタンの首都タシュケントで開き、ウズベキスタンにこれから政治、経済および人権において早急に改革を行うことや、西トルキスタン諸国間国境を開放すること、国民が自由に国際貿易できることなどを要請し、それを前提条件として西トルキスタン諸国に6億ユーロ 融資を提供することを決定した。軍事面においても、NATOはカザクスタン、ウズベキスタン、クルグズスタンなどとの軍事協力を強化しつつある。

 アメリカのブッシュ政権は対テロ戦争のために西トルキスタン諸国の旧共産系指導者の独裁政治を当面ある程度容認せざる得ないが、余り長く関与せずには居られないだろうと推測される。2007年から2008年には、既に高齢になっているウズベキスタンのカリモフ大統領、カザクスタンのナザルバエフ大統領などの引退が注目されるが、彼らはいま自分の家族にその権力や支持基盤を渡そうとしている。これらの国は国体として自由選挙を基本とする共和国制を採用しているが、実際には隠れた王政のような政治が行われている。例えば、アザルバイジャンでは旧共産系のアリエフ大統領が没後、その長男が大統領職に就いている。西トルキスタン諸国国民は決してこのような事態を容認している訳ではない。ウクライナから始まった“オレンジ”革命は、西トルキスタンではまずクルグズスタンでその花を咲かせることに成功している。その次の候補は言うまでもなくウズベキスタンとカザクスタンである。

 西トルキスタン諸国で完全な議会民主主義が実行され、西側並みの言論の自由、貿易の自由などが認められ、人々の基本的人権が保障されれば、西トルキスタンにおける東トルキスタン独立運動が再び活気を戻し、東トルキスタン国民に希望の光を与えることができるだろう。

 中国は西トルキスタン諸国の民主化を極端に恐れている。北京 は“上海協力機構”を通して、ウズベキスタンのカリモフ政権、カザクスタンのナザルバエフ政権にできる限りの支援とサポート を与えている。なぜなら、西トルキスタンに旧共産系の独裁政治が続く限り、中国は東トルキスタン独立運動を国内だけではなく、西トルキスタンでも鎮圧することができるからである。東トルキスタン独立運動が今の様に低迷状態に追込まれているのはやはり北京の西トルキスタン外交が成果を挙げている証である。西トルキスタン諸国の民主化無しに、東トルキスタン独立運動の活性化は有り得ないと言っても過言ではない。