私は誰よりも

仕事で認められたい

と言う思いが強いこどもだった。




こどもの頃から仕事をしたい!

とばかり思っていて

将来、お金を稼ぐことにものすごく関心があった。




それは、大人への憧れと

自由への切符が

「仕事」に全てある


と思っていたのだ。




さらに、仕事を頑張れば

認められる。

しかも正当に。




がんばれば報われる世界が

そこにある

と、信じていたからだ。



その背景には

何をどう頑張っても

周りから認められない




勉強も頑張ったのに、なかなか結果に繋がらなかったり

人間関係や

日常の活動を頑張っても

なぜか、空回りばかり

誤解をされることも多かった。


思いが伝わらなかった。





そうじゃない

私が言いたいのは・・と言いかける前に

全てが過ぎ去っていた。





だから尚更

カタチに残る

「仕事」として自分を表現したかった。



けれど次第に

真面目でつまらない堅物人間になっていた。



それはいまでも

人と話が盛り上がらない

合わせられなく

気を使わせてしまうのは

内心、申し訳なさでいっぱいで

コンプレックスでしかない。


言うならば

心の内をさらけ出せる相手は

ほとんどいない。


固く高い城壁がある。


これさえなければ

とっくに

ラクになっているのに。

と悔やまれるけど

これが私だから仕方ない。



人の懐に入るのが怖くて

自分をよく見せたくて

肩書きが欲しくて

その図式のわかりやすい矛先が

「仕事の評価」になっていた。




才能を開花して、仕事で正当に評価されたい



けれど、そう思えば思うほど


本当の自分と遠のいていく。


何かにならないと認められない。


このゲームから抜け出せなくて

苦しかった。


劣等感の塊だったから

仕事に依存していた。

仕事が私をこの窮屈な世界から

抜け出す方法だと信じていた。


でも、本当は


仕事が出来る人より

仕事は出来ないけど

人懐っこく、愛される人の方が

本当に欲しいものを手に入れられることを

悔しいほどわかっている。


けれど、それも出来ないことを

泣きたいほどわかってる。


そんな全てを見せつける

仕事って



評価されるものでなく、

もっと地味で、誰にも見てもらえない時に

いかに自分と向き合って

本当の自分を知って、受け入れていくのかと言う、



自分の心の合わせ鏡でしかない。



仕事はもっともっと本質的な

自分を延長する道具にすぎない。


だから

好きな仕事でも

イヤイヤやっている仕事でも

稼げても

稼げなくても

人が来ても

人が来なくても


そんな判断基準を

どんどん手放し

あけっぴろげな自分になるための

練習問題みたいなものなのだ。


先程の内容に戻るけど


仕事を通して

自分の中にある

計り知れない劣等感

悔しさ

絶望感を受け入れるこのを知った。


人の心を惹きつけられない変わりに

仕事で惹きつけようとしていた

自分の浅さにも気づいたのだから。



そんな

どうしようもない自分と

どこまでも対峙し

自分をあきらめながら

それでも

今日やる目の前に来た仕事をただ淡々とこなす。




不器用だからこそ

この「仕事」という学びを通すことを

幼少期から無意識に

選択してきたのかもしれない。




先日、誕生日を迎え


「真の仕事」について

また新たに深まり


仕事と自分に正直に向かって行きたいと

感じたのです。