父は、有料老人ホームの申し込みをしたものの、

まったく入所する想定はない。


 本当に心底我が道しかし行かない性格なので、

その父が施設に入りたくないのはこちらとしては想定内だ。


 父は、庭いじりが好きで、毎日夕方から暗くなっても庭で作業している。草を挽いたり庭木を整えたり、そんな大変な事に事は業者に頼もうと言っても自分でやると言って聞かない。

 何かの達成感があるのだろう。


 父に、

「暗くなって庭をウロウロするな」と何度言っても全く馬耳東風だ。

 暗くなって庭で作業をすると、もし何かあって倒れても実家の庭は塀があり外からはまったく見えないので、高齢者には危ないのだ。しかも、木や庭石もあり平坦な地面でないので転びやすい。

 夜庭で何かあっても、恐らく次の日の午前中までは誰も見つけられないし、デイサービスのない日だったら丸二日発見されないのだ。


 その危険から、口を酸っぱくしてやめてほしいとお願いするが、聞いてない父。


 施設に入ったら安心だ。


 けども、うっすらと思う。


 やりたい事を自由に出来ないけど安心だ、というのは

多分幸せではない。


 本人にしたら、最後まで自分のやりたいように生きて、運悪く転んで死んだとしても、そっちの方がよいのだ。



 だから、それが分かるから、私も強引に騙してまで入所させようとは思わない。



 どちらにしても、人は寿命がきたら死ぬのだ。


 父は、確かに理性が薄くなってきているが、

父の人生は父のもので、やりたいようにやってよいのだ、と実は思っている。

 

 最後まで生きたいように生きで良いのだ。


 私は、心の中ではそう思っている。


 ただ、誰かに迷惑をかけたらいけないから、迷惑をかけない方法を考えると、そして私に責任があるから、と思うと 安全にケアしてもらわねばマズい、という世間体がある。


 その二つの天秤にゆれている、というのが悩みの種で、実際には父ではなく守りたいのは自分だとわかっている。


 分かっていて、究極大事なのは自分だから施設にはいってほしいのだ。


 私は私で、自分ファーストで生きる権利がある。



 などと、いう気持ちが色々定まらないのが

介護の大変さの本質なのだ。


 つまるところ、迷い紆余曲折したり喜怒哀楽し最後までよくわからないのが生きる本質だと思う。正しさという概念は、所詮ただ一つの意見にすぎないし、

介護など取り立てるほどのものではない平凡な出来事のひとつにすぎないのだ。