2011年3月の福島の原発事故以来、パンドラの箱が開いて、これでもかこれでもかと長きにわたり国民が国に騙されてきた事実が表に出てきたわけですが、この機に乗じて2012年12月には戦後最悪としかいいようのない戦前回帰を悲願とする安倍政権が誕生。違憲・違法立法と汚職、不祥事にまみれ、嘘がばれたら開き直る。スピン報道として閣僚の不祥事も絶え間なく発生させて撹乱。そしてなぜか一番モラルの低い安倍晋三首相自身が「膿を出し切る」とかテキトーなことをほざいておいでですが、お前が膿の塊だろうと言われたりしてます。


この反知性集団である安倍内閣閣僚らの大半は日本会議という極右組織のメンバーで、欧米の主要メディアではすでに何度か安倍政権が極右政権であることは大きく報じられているのはSNSでもよく知られるところ。

 

「基本的人権などというものは間違っている」と言い合い、互いに拍手喝采する組織で、軍事独裁政権を恋しがり、戦前回帰をめざしている人たちですが、要するに、その低能ぶりを国内外の軍産複合体に大いに気に入られ、利用されているわけですね。リーダーを演じるには知性も教養もなさすぎ、芝居も下手すぎるのに大衆にアピールする必要があるので、大手広告代理店を投入してカバーしてありますが、もう見ていて恥ずかしいぐらい手の内晒しまくりです。


甚だしい米国に対する隷属を貫き、血税を武器弾薬に使いまくる一方(しかも交渉能力ゼロなので常に相場より高額で)、アジア周辺諸国を見下し、ヘイトを拡散、おまけにお子様レベルの「日本スゴイ」自画自賛番組やキャッチフレーズを、御用タレントやキャスターの口を借りて連日マスコミが垂れ流す毎日…。


いったいいつからこんな国になってしまったんだろう?…と考えると、第二次世界大戦前夜を飛び越えて、そっくりなことが起こっていた19世紀後半の明治の薩長新政権に行き着きます。


安倍晋三が尊敬する吉田松陰が象徴的な言葉を残していますが、専守防衛で長年平和を守り、欧米列強とも対等に、情報分析と正論を貫いて外交政策を展開していた日本で、まさかの侵略思想だらけ。関良基氏による現代語で書くと…


『…日本は神の国だから神風が吹く。一億玉砕しても魂が昇華されて七度生まれ変わっても必ず外国を打ち払う』『死んでも魂はまた帰ってきて、生まれ変わって外国を打ち払う』(『七生説』や遺書『留魂録』の中で。)


『…蝦夷の地を開墾して諸大名を冊封し、隙をついてカムチャッカ、オホーツクを攻め取り、琉球も諭して内地の諸侯と同様に参勤させねばならない』(『幽囚録』)


朝鮮を攻めて古来のように盛んに日本に朝貢させ(なければならない)
※朝鮮が日本に貢いでいたという史実はありません。ほんの一瞬、弱かった頃の新羅に勝ったときの拡大解釈です。


北は満州の地を切り取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進出の勢いを示すべきである


まさにこの松蔭の妄想どおり、長州レジームが続く明治政権は海外侵略を重ね、結果的に新政権樹立からたった77年で、310万の国民と数千万の海外の人々を死なせ、日本の国を焦土としてしまったわけです。


(吉田松陰像。29歳で死亡しているのに熟年男性のように描かれた肖像画が出回っていますが、実際の松蔭は右の写実的なほうが近いと思われます。)


また、もっと読んでいて恥ずかしくなるのがこちら。


『ロシアやアメリカとは戦っても勝てないから、ロシアやアメリカと貿易して損をするようなことがあったら、代わりに朝鮮や台湾を取って、そこからの利益で損失を補うべきだ』(兄・杉梅太郎宛て安政2(1855)年4月24日付書簡)


いやはや、安倍政権になってからの自民党の姿勢そのまんまというか…。スネオイズムというかポチズム(←岩上安身氏の造語)というか、強きを助け弱気を挫く姿勢を貫く安倍晋三に代表される恥さらしな人格というか…。

 

とにかく、私たちの原点はこんな明治ではなく、徳川の公儀の時代にこそあったのです。明治"維新"の欺瞞を知ると同時に、それでもこの国にはすでに立派な人材が何人も育っていたことを私たちはもっと知る必要があります。知れば、ちょっとホッとします。


薩長閥の明治政権以来、日本の政治がどうなっていたのかは東北の人たちはずっと知ってたのかもしれません。戊辰戦争というのは一体なんであったのかが語り継がれているのです。


それを強く実感したのは、たまたま3月にIWJ岩上安身氏による原田伊織氏のインタビューを視聴し、原田氏が2015年に上梓されて以来ベストセラーとなっている「明治維新という過ち : ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」を読んだときでした。

 

公文書偽造で始まった明治維新! 現在も続く「官軍教育」の中で描かれた「偉人」たちの姿は「ウソ」ばかり!? 岩上安身による作家・歴史評論家・原田伊織氏インタビュー2018.3.8 


戊辰戦争と総称されるこの激しい内戦は、多くの戦から成るもので、鳥羽伏見の戦い、阿波沖海戦、甲州勝沼の戦い、宇都宮戦争、箱根戦争、市川・船橋戦争、上野戦争、北越戦争、朝日山戦争、二本松の戦い、会津戦争、秋田戦争、箱館戦争などが含まます。本物の売国奴らのために国が二分されてしまった大きな内戦です。


武力鎮圧を必要としない場合でも、大久保利通は「血を流さなければダメだ」と強硬に武力行使にこだわったとのこと。とにかく明治の”志士”たちは皆、自身がいくつもの殺戮に手を染めていました。

IWJインタビューのダイジェストだけでも、すでに私たちが知る明治"維新"というものが如何に嘘だらけなのかが出てきますが、書籍のほうは、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争についても小説のように詳述してあり、会津や周辺地域の人たちが、なぜ150年たった今でも薩長、特に長州を許すことができないのかを知ることができます。「知ることができる」という表現では生易しいくらいに、これまでの自分の無知を心底恥じるようになります。


東北の内戦だけでも読んでいて驚くのは、ついこの間まで需要もなかったこの国でいつの間にこれだけの武器が準備されていたのかと思うほどの銃撃戦。原田氏はテロリストらの私利私欲や狂信的な水戸学信仰を強調しているのですが、そこから見えてくるのは、誰がどれほど武器で儲けたか、不要な武力行使を焚き付けたのは誰であったか、ということです。(ここで思い出すべきは、グラバーや坂本龍馬、アーネスト・サトウですね。)


原田氏は、武士道や武士に関してストイックなまでの思い入れがあるのと、意識的に感情をこめて書かれている向きもあるので、そのへんを割引いてファクトだけに注目しても、やはり無機質的に教科書で習った日本近世・近代史には矛盾することが多いことがわかってきます。


東洋経済でも2月に歴史家の武田鏡村氏が「維新150周年式典の前に「賊軍の名誉回復」を|前のめりな政府に「東北・北陸」が違和感」という記事を出しています。


末尾で

「全国民一致で祝う「明治維新150年」にするためにも、今度はそんなことを言われないよう、「負けた側の貢献」についても積極的に評価していただきたいものです。」

と控えめに書かれているのですが、いくつか関連本で真実を知ってしまうと、そもそも明治"維新"を祝うことすら間違っているし、その前に存在した江戸時代が明治以降いかに不当に評価されてきたかを思わずにいられません。


なぜなら、その続きに武田氏が書いているとおり、

「菅官房長官は『明治の精神』に学ぶことを勧めていますが、その精神には、軍国主義、侵略主義、愛国心があり、それが先の大戦につながっていったということを忘れてはならないことは、言うまでもありません。」

というのが真実だからです。海外で数千万の人を殺し、310万の国民を死なせ、国を焦土にするような馬鹿な国になった、その源泉が明治の政変だったわけです。
(東北出身の菅義偉が明治維新を美化するのは笑止千万ですが、戊辰戦争では東北の列藩同盟を裏切り、薩長側を利することになった秋田の出身では事情が違うのかもしれません。)

 

世界一の地震大国に54基もの原発を建て、国土の半分を汚染し、6桁の棄民を出してなお、原発再稼働させるという狂気も源泉は同じです。

私たちが本当に学ぶべき精神は、薩長の明治政府がぶち壊す前の時代に存在していました。徹底した専守防衛。他国に攻め込まなくてもいいほど国内産業を発達させた自給自足。そして開国に至っては前向きな議論と高い外交能力。他国を見下したり自国を卑下したりしない、柔和でありながら毅然とした大人の国。赤松小三郎のように、地方藩士でありながら身分制度を続ける現行制度を批判する建白書も受理されていました。それが薩長にかき回される前の日本でした。私たちの祖先と呼ぶべき人たちは、そこにいたのです。


原田伊織氏以外の研究者らも指摘していますが、幕末と呼ばれている時代には、すでに日本は開国に向かい始めており、頭脳明晰な徳川官僚たちが英米と互角に外交を行っていたし、御三家を含む大名らも議会制の統治への合意が形成されつつあったのです。
また、徳川政府はそもそも朝廷とはうまく役割分担できており、朝廷も行政は公儀(江戸幕府)に任せておきたかったのです。孝明天皇は外国嫌いで知られていましたが、1865年には情勢を理解し、通商条約締結への勅許を出しています。


身分制度や縁故主義はありましたが、我々が思い込んでいるより身分間の移動は容易に行われていたし、江戸時代は地方分権も機能しており、庶民(その大半は農民)も今よりずっと簡単に訴訟を起こして裁判が行われていました。


私たちの祖先の9割は農民だったというのに、政治史に専念する歴史学者というのは農村の暮らしをほとんど書きません。ですので私たちも習っていません。NHKのお江戸でござるのときの杉浦日向子先生のお話や、時代考証されていたタイムスクープハンターを見ていると、なぜこれほどまでに私たちは当時の庶民の暮らしを知らなかいのかと思わされたものですが、農村についての本を読めば更に目からうろこがおちます。

(たとえば渡辺尚志著「百姓の力 江戸時代から見える日本」。そして農民と赴任してくる大名との関係を播磨で何度も現地取材したという玉岡かおるの小説「負けんとき: ヴォーリズ満喜子の種まく日々」)

 



江戸時代は長期的には国はどんどん衰退していって、よくなることはなかったと書かれていた日本の歴史(中公文庫)…あれは御用学者が書いたものだったのでしょうか。

 

実際には、開墾は奨励されていて、田畑は需要に合わせて増えたり、不公平にならないように、定期的に使う区画を交換したり、物流のための新しい職業を兼業したりするなど、農村は農村で、それなりに時代に応じて変化し、教育や防犯・警察機能に関しても、いまの中央集権よりうまく機能していた場合も多々ありました。女性の立場も明治に貶められるより男女対等なものでした。

 

もちろん、村社会ならではの因習もあったようですが、江戸時代の一般庶民の武家に対する卑屈さや女性の虐げられ方のかなりが、明治以降に意図的に作られたイメージだとしか思えません。
 

政治行政に話を戻すと、関良樹氏の「赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢」 に詳述してありますが、19世紀半ば以降の日本では、徹底した専守防衛を継続する一方で、英国式の最新式兵法も教えられ始めていました。


藩士らも自由に幕府や大名に建白書を送ることができたし、身分の隔てなく能力により人員を採用することを提言しているものもあります。


すでに立憲主義に基づく憲法草案もいくつか作られており、その一部はいまの日本国憲法より先を行っていたのです。

(このあたりについては、「日本史に記されるべき赤松小三郎という志士 - IWJによる関良樹氏インタビュー」として別記事に書きました。)

となると、いったい誰のために「維新」が必要だったのでしょうか。いわゆる近世から近代への移行はスムーズに行われようとしていたというのに。大政奉還は済んでいたし、それに賛同していた東日本でなぜ凄まじい内戦が起き続けたのでしょうか。新政権を倒したいなら江戸へ攻め入るならわかりますが、何が嬉しくて郷土を破壊されるような戦に巻き込まれたのでしょうか。そこには必然性はあったのでしょうか。


薩長による倒幕は、フランス革命のように虐げられていた民衆が蜂起したわけではありません(飢饉のあとなどに起こった数々の一揆とは別物)。民衆のために下級武士が義勇軍を編成してが闘ったわけでもありません。というか、明治"維新"に関わった自称"志士"たち、つまり明治政変を起こした長州テロリストたちは、庶民から搾り取った米を換金した撫育金(ぶいくきん)で豪遊するような20代のチンピラたちでした。吉田松陰は今でいうISISのような組織を作ってしまったわけです。


まさに英米から流れるカネで武装した若きイスラム原理主義者らが勝手にイスラム国(ISIS)などと称する国を作り、平和に暮らしている周辺諸国の一般庶民を襲って権力に酔いしれ雄叫びをあげている、あの状況です。


歴史が書き換えられて"志士"となった彼らは、下級武士の中でも特に優秀であったわけではないので、どんな野望を抱こうが、実際にはトマス・グラバーのような武器商人や、アーネスト・サトウのような奇襲攻撃の訓練を手配できる人間がいなければ、270年も続いた政権を倒すことなどできなかったと思われます。(今以上に長期の平和ボケが長期政権側にあったのは確かですが、幕府側の軍は数でも装備でも勝っていました。)


長老が君臨する歴史学者の学会や学説に縛られずに、幕末・明治を改めて研究した人たちがたどり着く結論は、昭和になって「明治維新」と呼ばれるようになったできごとは薩長テロリストらの私利私欲のための政変であった、ということです。そして、テロリストという駒を動かしていたのが、英国の軍事利権(←すでに植民地主義に対する国内批判に晒されていた英国政府とは別です)。

 そこに寄与しているのが、第9代水戸藩主の徳川斉昭が作った水戸学(後期水戸学)。この水戸学というのは儒教に無理やり国家神道(日本古来の自然信仰である「神道」とは全く別物)を結びつけたような狂信的なもので、日本会議メンバーらであれば経典として崇めそうな内容のようです。斉昭はとにかく外国船は打ち払えという人で、当時の国際情勢を全く理解していないカルトでした。


こう書いてくると山口県や水戸市の人たちに対する誤解や筋違いの恨みを生むかもしれませんが、こうした狂信的なテロリスト集団の最初の犠牲者は、萩藩や水戸藩の庶民でした。農民は無茶な年貢を搾り取られて貧困に喘いでいたし、幕府に恭順の意を示した武士らは弾圧されました。(徳川政権では実質、地方分権が機能していたので、藩のトップが無能であれば、民百姓は苦しむことになりました。)

 ちなみに「長州藩」という呼び方は実際には存在せず、これはテレビや出版社が作り出して普及してしまった呼称。通称は長州であり、長州人たちはときに長藩とも呼びましたが、正式名称は萩藩です。


ではなぜ明治テロの中心となった長州ではそんな輩たちが育ってしまったのかというと、これはお金の動きが絡んできます。英国の武器商人にそそのかされる前提として、貧困に苦しむ庶民をよそに、搾り取ったカネ(検地の仕方を変えて増やした年貢のうち幕府に知らせず換金して溜め込んだ撫育金)で一部の官僚だけが贅沢をするという文化ができてしまっていたわけです。この撫育金は、今でも日本の国家の「特別会計」として受け継がれてしまい、有権者や納税者に内訳を知らせずお上が権力維持のために使うことがずっと許されてきました。(苫米地英人著「明治維新という名の洗脳」参照。)官房機密費も似たような性質を持っています。


話を戻しますが、幕末から明治にかけて、私たちが学校で習って信じ込んでいることと、本当の史実とは明らかに異なるのです。もっというなら、薩長が作った明治政権は、江戸時代以前まで遡り、日本の歴史を書き換えてしまいました。


IWJの関良基氏インタビューでも出てきますが、そもそも「幕府」というのは薩長が徳川政府やそれまでの武家の政権に押し付けた差別語で、それは朝廷の下僕として蝦夷征伐などに行ったときなどの仮の陣営を意味するといいます。江戸時代の人たちは徳川政府のことを幕府ではなく「公儀」と呼んでいたそうです。鎌倉や室町でも幕府とは呼ばれていなかったそうです。なのに私たちは当時も幕府と呼ばれていたと信じ込んでいます。

 

また、長野や群馬という県名も、薩長が押し付けたもので、長野の場合は信州という名称を奪ったことになるそうです。

 

この時代を語るには本当なら「明治維新」などという美辞麗句や、「幕府」などという蔑称を使いたくないのが研究者らの本音ですが、あまりに普及してしまったので、使わざるをえず、また本の見出しにも検索者らの目に留まるように出版社の提言どおり入れるしかなかったという事情があるようです。


ということで、このブログでも、公儀とか明治の政変で統一したいところですが、途中から読む人の混乱を避けるために、あるていど妥協しています。

さて、そんな政変で誕生した明治政権ですが、たとえ暴力革命だったとしても、本当に悪政を正して「維新(世のいろいろのことが改革されて、みな新しくなること。)」を達成したのであれば、なおさら、記録はすべて残して見せればいいはず。でも、公文書や教科書では薩長にとって都合の悪いことは書かれず、徳川時代の失敗を挽回したかのような美談に変わってしまっているのです。


たとえば、私たちは幕府側が無知だったために、不平等通商条約を結ばされたと歴史の授業で習いましたが、徳川の優秀な官僚たちは、欧米先進国どうしの標準である20%関税ですでに条約締結していたのです。でも長州が勝手に外国船を無差別攻撃して人命を含む多大な損失を与えてしまったので、国際法上の賠償金を公儀(幕府)が肩代わりして支払うことになりました。その額は当時の国家予算の半分もあったので、支払いの延期まで申し出る必要があり、その懲罰として、関税は2.5%にまで引き下げられました。これはすでに植民地化されていたインドや中国と同レベルでした。

 

このためにイギリスから木綿が流入し、日本の木綿産業は壊滅しますが、この不平等条約の元でも高く買われ、日本を植民地化から救ったのが絹製品でした。薩長の攻撃対象であった佐幕派の地域で発展していた養蚕や絹産業のお陰だったのです。こういうことは習っていません。


つまり、明治からの学校教育では、薩長に都合の悪い話は書き換えられて伝えられたわけです。これはメディアでも同じでした。


このあたりは苫米地英人氏の「明治維新という名の洗脳」に書かれているので引用します。

 

”…しかも、明治時代の言論統制は徹底されていた。例えば、新聞は内務大臣がその発行及び停止の無制限の権限を持ち、政府に関する批判はもちろん、元武士である官吏たちの横暴を暴露したり、揶揄しただけでも発禁処分とされてしまっていた。 新聞紙条例、出版条例、集会条例、保安条例言論4法によって、すべての報道は完璧に政府の管理下に置かれていたのである。この内務大臣の権限は1945年まで、つまり明治の始まりから太平洋戦争敗戦までの70年間ずっと続いていたのである。”

 

実はこれは坂本龍馬暗殺の理由がなぜ伏せられているのかについて言及している場面なのですが、明治の人たちはこうした言論統制下にあったということです。江戸の平和な生活をかき乱された人たちの憤怒も公式文書や新聞報道ではほとんど残らなくなりました。そして、敗戦の1945年どころか、未だにはびこる記者クラブという制度が引き続きこの国の報道姿勢を大きく歪めていることは周知の通り。

 (さらに、安倍政権になってから、半分自作自演のスキャンダル・スピン報道の陰で、これら言論4法に成り代わるテロ等準備罪(共謀罪)などの悪法が数の力で次々と可決され、ことしは戦前の治安維持法より悪質な緊急事態条項憲法にねじ込むつもりです。)


しかも、明治の45年間を生きた人たちというのは、徴兵などない徳川政権下の平和な時代に生まれ育った人たちが大半で、薩長閥による縁故主義の圧政以前の問題として、特に江戸や京都においては、西郷隆盛が送り込んだ赤報隊による市中での無差別テロの悲惨さを忘れていなかった頃です。

 

「赤報隊」というと、昭和以降の朝日新聞記者襲撃事件で知られますが、そのドキュメンタリードラマに登場する記者たちでさえ知らなかったりするほど、元祖赤報隊については義務教育では教えません。その代りに、目的のためには仲間や一般庶民の殺戮であろうと手段を選ばなかった西郷隆盛をヒーローに仕立てた大河ドラマを明治維新150周年記念としてやっていますが、赤報隊の真実を知るなら見るに堪えない欺瞞です。


幕末の相楽総三率いる武装勢力、のちに赤報隊と呼ばれるテロ組織ですが、西郷隆盛の命を受けた相楽総三らが一般市民を襲って放火・強姦・強盗・殺人など繰り返し、徳川側を挑発し続けたのです。京都でも同じことが行われました。

 

現代を生きる私たちは、動乱の時期には殺し殺されもあったのだろうと思ってしまいがちですが、今よりもっと平和が続き、武士の試し斬りなど滅多になかった時代、いきなり一般の商家などが次々と放火されたり、武装した強盗に襲われ、強姦・略奪にあって殺される状況を想像してみてください。住民たちは恐怖のどん底に突き落とされました。夜の江戸の町からは人の姿が消えたといいます。

 

とうとう幕府側の命で庄内藩が薩摩藩邸を襲撃したことを知ったとき、西郷は膝を打って喜んだといいます。一般の学説では相楽総三が勝手にやりすぎたことにしてありますが、テロの後は決まって薩摩藩邸に逃げ込んでいたことが目撃されています。そしてISISのトップように、相楽総三は御用済みになったときに、首謀者の罪も被されて処刑されました。


なぜこんなひどいことを行ったかというと、幕府側から政権奪取したかった薩長側が、岩倉具視らと作った偽の「討幕の密勅」を掲げたのですが(1886年10月14日)、同日に徳川慶喜が大政奉還を宣言してしまい、幕府に対する武力制圧の口実に窮したわけです。そこで、幕府を挑発し、武力で政権を乗っ取るために、騒乱を起こす必要が出てきました。(英国の武器商人にしてみれば、大量に注文した武器を使わせなければならないので、サトウは大久保や西郷を焚き付けています。)

 

これが凄惨な戊辰戦争にまで繋がります。慶喜から江戸と京都の警護を任されていたのは庄内藩会津藩だったので、庄内藩が赤報隊が逃げ込む薩摩藩邸を襲撃すれば、東日本を武力制圧する口実ができるからです。薩長としては平和裏に政権交代が行われてしまうと自分たちの出る幕がなくなる、これが大きな問題でした。


いま上野公園に江戸でのテロを命じた西郷隆盛の像が立っていること自体、庶民の洗脳がいかに大成功したかを物語っているといえますが、明治維新150周年記念としての大河ドラマが「西郷どん」となってテロリストの親玉を賛美するとは、私たちはどこまでおめでたい国民なのかと思わされます。10年以内に隆盛像は撤去されていることを祈ります。


余談ですが、早稲田大学をつくった大隈重信と、長州閥の井上馨(井上聞多)は同じ頃に亡くなったそうですが、大隈は演説が上手く、各地を旅するときに電車の中から遊説すると駅のまわりに人だかりができたそうで、葬儀のときにも大勢の人が弔問に来たそうです。一方、井上馨は国葬だったにもかかわらず、ほとんど誰も来なかったといいます。明治の人たちは薩長政権が何をやったか知っており、大嫌いだったということですね。


本当は幕末・明治以降というのは非常に大量のデータが残っているので、政府が公文書を改ざんしようが隠蔽しようが、本当の歴史はかなり発掘できるそうです。


昔からよく指摘されることですが、学校で教える日本史は、江戸時代までに時間を使いすぎて、明治以降の近代史は異様に端折って年度末にぎりぎり間に合わせていると思いませんか?


たいして歴史の勉強を真面目にやっていなくても、尊王攘夷を叫び、外国船や外国人を攻撃しまくっていた人たちが「維新」を起こしたはずなのに、新政府ができるなり、海外で猿真似と嘲笑されるような西洋人のマネのオンパレードになったのはおかしいと思いませんでしたか?


公武合体しているのに、徳川政府を朝敵扱いしているのはなぜなんだろうと思いませんでしたか?


無血開城に異を唱えているわけではないのに、鳥羽伏見の戦いに始まって、戊辰戦争という大規模な内戦が起きたのはなぜだろう、そこまで江戸時代の武士たちは無駄な抵抗をする必要があったのだろうかと思いませんでしたか? 仕掛けているのは新政府側だというのは認識できていたでしょうか。


このように、今の安倍政権同様、明治の新政権は都合の悪い記録はすべて破棄したり改ざんしてきました。そして、都合の悪い人間は片っ端から排除し、言うことを聞く人間を登用する。(とはいえ、薩長のテロリスト集団では行政を担える人材はゼロでしたから、優秀な徳川政権時の官僚らを使わざるをえませんでした。そのせいで、明治政府にもマトモな人たちが混ざっているわけです。)


幕末や明治初期にはクビにするだけでなく、都合の悪い人間は恐ろしいほど次々に殺されていったわけですが、安倍政権下でもスキャンダルの陰で不審死する人が多いのは知られるところ。森友問題だけですでに7人亡くなっているといいます。バラバラの訃報が出るだけだったり、野党による公聴会で問われるだけでメディアが黙殺したりしているので、一般の国民にはほとんど見えてきませんが。


明治政権が樹立した頃は、薩長政権ではありましたが、西郷も西南戦争で討たれ、大久保利通も暗殺されるに至り、体制は長州閥で占められるようになり、それがいま長州レジームと呼ばれています。


薩摩藩はもともと密貿易の影響で島津斉彬だけでなく配下の武士らも開明的な人が多く、むしろ大久保や西郷のほうが少数派だったと言われます。なので、今の安倍政権のような明治政府には激しく抵抗したわけです。西郷も最後は明治政権の汚さに失望して故郷の武士らとともに西南戦争を闘うことになります。(ちなみに、原田伊織氏によれば、西郷隆盛というのは粘着質で、かなり嫌われていたとか。直接知る人たちが語った記録がたくさんに残っているそうです。また大久保は、精神を病んでいたのではないかと思われるほどの残忍さで次々と周囲の人間を殺しています。これは他の研究者も指摘しています。)


我が国最初の総理大臣の伊藤博文(俊輔)に至っては、イギリス公使館を焼き討ちし、横浜焼き討ちを計画しました。吉田松陰門下生である高杉晋作久坂玄瑞品川弥二郎井上馨もイギリス公使館焼き討ちに関わっています。幕府挑発のためであれば無実の人たちを焼き殺すなどなんとも思っていなかったのです。明治の日本政府の顔ぶれはそうしたテロリスト集団でした。

 後年、伊藤は横浜焼き討ち計画に関し『そんなことはその頃は朝飯前の話だった』とジャーナリストに尋ねられてペラペラ喋っています。伊藤は、国学者の塙次郎も単なる噂話に基き暗殺していますが、こうした話は明治の自称志士たちには枚挙にいとまがありません。

 

しかも、政敵とは呼べないような人たちまで勝手にライバル視して暗殺しまくっているのは、嘘に嘘を重ねて手にした権力を誰にも奪われないように疑心暗鬼になって必死だったとしか思えないところがあります。大久保と西郷に暗殺された赤松小三郎などは、薩長もみんな入れて、全藩参加の議会政治を提唱していた人なのです。立憲思想を持っていた人間がよほど邪魔だったのかもしれませんが、自分たちより優秀な人は次々殺されたとも言われます。

 


明治天皇の父上である孝明天皇が暗殺された可能性は高く、記録によれば、実際に天然痘を患っていたそうですが、1866年の12月23日には快方に向かっていたとのこと。が、24日に見舞いに来た西郷と大久保に会い、25日に天然痘というよりはヒ素中毒のような苦しみ方で崩御しています。とりあえずは天然痘での病死説が優勢になっているようですが、あまりにタイミング良すぎるので暗殺説も消えません。そもそも風邪もひかないほど健康な人だったそうで、宮中の人が天皇の急病と急死に驚いたことを日記に書いています。

 

そして15歳の明治天皇が担がれたわけですが、替え玉説も流れています。真相はまだはっきりしていませんが、本来、北朝という正統派であるはずの明治天皇が、たった一度、自らの意思を表明したときに「南朝を正統派とする」と宣言しているそうです。ネットでは、睦仁親王の頃の明治天皇とその後の明治天皇の写真の顔が別人のように違うとも言われて拡散されています。

 

いずれにしろ、御所に砲弾を打ち込むという前代未聞の暴挙の末に孝明天皇から長州征討の勅命が出ていた(1864年と1866年)というのに、そんな長州が朝廷から討幕を命じられたはずはなく、岩倉具視長州が言っている密勅は偽造だとバレています(鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗も偽)。父である孝明天皇を亡くした15歳の睦仁親王(明治天皇)を実際に即位させたところで、長州人ら尊王思想などは全くなく、幼帝の政治利用しか考えていなかったことは、誰の目にも明らかです。


さて、天皇の政治利用しまくりも含めて明治政権そっくりの安倍政権がことし2018年に明治維新150周年を祝うことになっています(森友・加計問題のせいか、今のところ思ったより目立ちませんが)が、何をもって150周年なのかちょっと謎。なんせ1867年から1868年へと年をまたいでイベントが集中してしまっていたので、ちょっと整理しましょう。

 

大政奉還1867年だったので、京都などでは昨年2017年に大政奉還150周年のイベントをやっていましたが、大政奉還は10月14日のことでした(同12月9日の「王政復古の大号令」というのは薩長の宣伝であって、原田氏によると実際には失敗しています)。翌1868年の3月13日になぜか幕府代表らしい勝海舟と西郷隆盛の会談があり、4月11日江戸城無血開城

 

明治天皇即位が大政奉還より前の1867年1月9日孝明天皇の崩御が1866年12月25日)ですが、慶応4年1868年)の9月になって「明治元年とする」と決められたので、1868年は1月1日まで遡って明治元年ということになったらしいです。年表では慶応4年で統一していることもあるようですが。(※明治5年までは旧暦を使っていたので、ここにあげている月日も旧暦のものとなります。)

 

そんなわけで、2018年は"明治維新150周年"とされ、50周年、100周年の節目同様に長州出身の安倍晋三という総理大臣が居座っている必要があるわけですね。史上最大の不正選挙が疑われる2012年12月16日の衆院選で何が何でも9月に総裁になった安倍が勝利させてもらった理由はこういうところにあるかもしれません。

 

吉田松陰を礼賛する安倍晋三が未だに首相の椅子にしがみついて国政を滅茶苦茶にしてくれているところですが、パターン化した目先のスキャンダルと国会冒涜に振り回されることなく、何が起こり続けているのかを理解するには、直接関係なさそうに見えても、やはり歴史を検証することは、絶対に必要なことだと思います。


「勝てば官軍負ければ賊軍」とか「勝者が歴史を作る」などと言いますが、勝者が書いた歴史を検証することなく、この国はすでに150年も経ってしまいました。

 

戦後民主主義では新たな学校教育が始まったはずですが、すでに70年の間、嘘を教えられてきた大人たちが次世代の教育を行うわけですから、司馬遼太郎が明治の時代をあり得ないほど美化してしまっても、当時を知り「こんなの嘘だ」と言える人はほとんど亡くなってしまってるわけです。真実が共有されていないから、マスメディアが流布する情報を簡単に信じ込み、何度でも騙され続けます。


ここ2、3年、幕末から明治にかけての歴史の真実が暴かれるような断片的情報がSNSでは共有されてきましたが、書籍のように参考資料まで掲載したひとまとまりになった情報で、これまで洗脳教育で信じ込んできたことを洗ってみる必要があります。


薩長のテロリストたちが樹立した未熟な政権が西洋礼賛に突き進む中で、失われてしまったものはたくさんあるのです。


赤松小三郎立憲思想に代表されるように、幕末にはすでに議会政治と立憲主義的な憲法構想が出てきていました。私たちが帰るべきところは、明治"維新"などではなく、そこなのです。

 

大日本帝国憲法も、当時としては比較的民主的だったと言われていましたが、実は「国民を臣民とする」などというカルト的なもので憲法とは呼び難い内容であり、2千年遡っても日本人が自分たちを天皇の奴隷だと認識したことなどありませんでした。日本会議はこれこそ伝統だと信仰しているようですが、150年前に独裁政治をやりたかった連中が編み出したお話です。

 日本に存在したのは自然信仰である神道と、伝来してから共存してきた仏教であり、また、江戸時代に朱子学を混ぜて身分制度に利用されてしまった儒教でしたが、国家神道ではありません。


日本人ほどマスコミ情報を盲信する国民はいないと言われますが、煽られやすい理由の一つが、先人たちから受け継がれていた大事な知恵や情報が150年前を堺に途切れてしまい、伝承されなくなっているからではないでしょうか。つまり戦後の平和ボケだけが原因ではないということです。