アフター・パンデミックの来るべき新世界 | ちんちくりん的視点 “warped view”

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写真機とリアルと幻影
ファインダーに自由を
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非常事態宣言が出て2週間余りが過ぎました。

みなさんいかがお過ごしでしょうか。


僕はもともと家でゴソゴソやっているのが好きなので、外出自粛自体にストレスはないけれど、この12週間が瀬戸際だとか、34週間で山場だとか、GWが正念場だとか、場当たり的な対応にはほとほとウンザリします。


日々ニュースを見ていてつらいのは、自粛要請を強いられて仕事を続けられなくなったり生活に困窮する人たちがたくさんいて、日に日に追い詰められている現状です。


自粛は求めるが補償はしない、そんな無茶苦茶な話はありません。


中でも音楽や演劇など文化・芸術が危機的な状況にあることをとても危惧しています。ライブハウスや劇場は閉鎖され、アーティストや関連業者は活動の場をなくしています。このまま彼らが守られることなく、文化芸術が衰退していくようなことがあってはなりません。


医療従事者も危険と隣り合わせで過酷な労働を強いられ続けています。彼らの献身的な働きなくしてコロナを克服することはできませんが、国の医療現場へのサポートは遅々として進みません。


社会の下支えをしてくれているエッセンシャルワーカーも同様だし、そもそもステイするべきホームがない人、ホームにDV夫(親)がいる人、援助がなければ生活がままならない障がい者や貧困の子どもたちなど、事情を抱えた人たちへの目配りや支援は薄く、このままでは彼らが真っ先に切り捨てられていきます。


コロナ禍で起きる問題は他にもありすぎて書き切れないけれど、一番恐ろしいのは、ネットやテレビでちらほら見かける「非常事態だから国民は一致団結すべし」という同調圧力です。


一見正しそうに見えても、非常事態に乗じた全体主義的な圧力は、個人の自由と権利を奪い、独裁や監視社会へ繋がる危険を孕んでいることを忘れてはいけません。


今はまだ自粛を「お願い」されているだけで選択の自由は僕たち側にあります。それがいつのまにか「強制」「命令」になり、権力で行動が抑圧されることにならないように、自分たちで正しく判断して行動することが重要です。


人は誰かと繋がり、コミュニケーションをとり、交友を深め、支え合うことで社会の一員としての立ち位置を認識するものです。でも今は"ステイホーム""ソーシャルディスタンス"や"接触8割減"の厳守です。うちにいてもネットやSNSを通じて繋がることはできますが、それはあくまでバーチャル。受け取れる情報量は限られ、視野も狭くなります。ステイホームが長引けば現実感覚が失われ、孤独や不安を感じたり疑心暗鬼に苛まれたりネットのデマを信じたり政府のプロパガンダに騙されたり多数派の意見に流されたりしがちになります。


こうした孤立した極限状態の中で僕たちは、コロナ以前に自分の心に打ち勝ち、正しい判断力を保ち、生活苦と闘い、国や自治体と闘い、自ら生きる権利と補償を勝ち取らなくてはいけないのです。なんという厳しい闘いでしょう、、、!


一体どうやって今を闘い抜けばいいのでしょうか、、、



テレビで誰だったか医療関係の専門家がこんなことを言っていました。

「アフリカの貧しい村などでは感染症対策を徹底しようとしてもうまく行かない。普段からの生活が厳しすぎて、感染症を乗り超えたとしてもその先に描ける未来がない。だから本気で取り組めず諦めてしまうのだ」と。感染症を克服すためには、その先に必ず「希望」がなければならないのだといいます。


じゃあ今、僕たちが描ける「希望」ってなんでしょう、、、?


パンデミック宣言が出て、日本にも不安が広がり始めたころ、池上彰が番組でこんなことを言っていたのを思い出します。


「悪いのはあなたではない。コロナが悪いのです」


視聴者を励まそうとした発言だと思いますが、僕はなんとなく違和感を覚えました。もちろん悪いのはあなたでも僕でもない。だけどじゃあコロナが悪いのでしょうか?


そうじゃないと思います。


コロナはコロナの生存戦略をしているだけです。人間にとってそれが不都合なことであったとしても、コロナが何らかの悪意を持って人間を攻撃しているとは思いません。


コロナを悪者にして自己正当化するのではなく、なぜ世界はパンデミックを抑えることができなかったのか、自分たちの行動のどこに問題があったのか、しっかりと自問する必要があります。これまでの生活が一変し、多くの人が亡くなり、価値観さえも揺らぐような甚大な犠牲を払って、その反省や経験から何を学びとることができるか、そこから先どう考えてどう行動を起こすべきなのか、そのことが問われていると思うのです。


コロナも自然の営みの一部なのだとしたら、自然界が一定のバランスで均衡を保とうとするように、コロナが世界を浄化しているように僕には思えて仕方がないのです。


自然界のバランスから大きく逸脱し、壊し続けているのは他でもない僕たち人間です。その人間社会そのものも、あちこちで大きくバランスを崩して崩壊寸前です。今、コロナによって社会の歪みや弱みや病みや不都合な事実が次々に炙りだされています。


地球環境にとって悪なのは、コロナよりむしろ人類の方です。この地球に居場所を求めるのなら、変わらなければならないのは僕たち人間です。


このパンデミックをきっかけに世界のあり方、価値感は一変するでしょう。


僕たちは今、世界の歴史的大転換の瞬間に居合わせているのだと思います。


これは単純に考えればとても恐ろしいことだし、これまでの日常を一旦すべて諦めなければならないのかもしれません。


でもこの一大変化をポジティプに捉えることはできないでしょうか。


今は悲観的なことしか考えられなくても、これを乗り越えたらその先には今までとは違う新しい世界が開けていると考えたら、どうでしょう。疲弊したこの世界をリセットして、新しく作り変えるチャンスが僕たちに与えられたとしたら、、、。


※ここからは僕の思考ゲームです。結論にはなんの根拠もありません


パンデミック後には国と国の関わり方も変わるでしょう。感染の被害度によって世界地図も塗り変わるでしょう。影響力を失った国連に代わって、コロナを制した国が力を持ち、国際的なイニシアチブを握るかもしれません。


感染対策に失敗し国民を守れなかった国家リーダーは失脚し、真に市民の支持を得て生まれた新しいリーダーが新しい理念を打ち出すでしょう。


格差はさらに広がり、それでも物や利益や権利を抱え込もうとする自国第一主義は支持を失うでしょう。


世界は分断をやめ、協調し互いに手を携えることの大切さを思い出すでしょう。


効率化と利益追求に走った大企業は危機管理の脆弱さや人材不足で足元が揺らぐでしょう。


経済活動が鈍化してCO2の排出量や環境への負荷が低減すれば、気候変動も緩やかになり、異常気象や大規模災害も減るでしょう。


水や空気や大地が何十年かぶりの清浄さを取り戻したら、天気のよい日には自宅の窓から富士山が見えるかもしれません。


かつての美しい日本の四季と折々の風物に癒され、心にも平穏が戻るでしょう。


おいしく安心な野菜や果物が獲れるようになり、素朴で健康的な食生活が送れるようになるでしょう。


人々はあるのもを最大限に利用し、古い習慣に囚われず工夫する知恵を身につけるでしょう。


頭と体を使ってクリエイティブに生きる悦びを知り、それぞれに新しいアイデンティティを見つけるでしょう。


そこから新しい文化や技術や芸術が芽生えていくでしょう、、、



本当に豊かな暮らしってなんだろうか、

人々のしあわせってなんだろうか、

自分が理想と思える世界ってどんなだろうか


それを自らに問い続けて、具体的に想像することがコロナに対抗する力(=希望)になるのだと思います。


あまりに楽天的すぎる、そんなわけないだろう、そういう声が聞こえてきそうですが、思考するのは個人の自由です。


いずれにせよ、次の世界をどんな世界にするか、それを決めるのは間違いなくここに居合わせた僕たち一人ひとりの務めです。


コロナ後の理想の未来を希望にして、変化を楽しみながら、まずはこの闘いを勝ち抜きましょう(決して悪魔に魂を奪われることのないように、、、!)。


そしてまたお会いできる日を楽しみに。


疫病退散‼︎