野球ファンに絶対読んでほしい“第2捕手”野口寿浩の生きざま【週刊大衆ヴィーナス】 | 駄文屋稼業、はじめました。

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フリーライター・鈴木長月のブログ


雑誌『週刊大衆ヴィーナス』で少し前にやった
『プロ野球 第2キャッチャーという生き方』
という特集記事からの抜粋です。

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 古田敦也という絶対的存在の前で“2番手”であることを宿命づけられたヤクルト時代。正捕手を務めた日本ハムでの経験を買われながら、矢野燿大の台頭を許した阪神時代。4球団を渡り歩き“2番手の天才”とも称された野口寿浩が語る捕手論とは──!?


■古田という大きな壁


 入団した当初は、古田(敦也)さんと同じとまでは行かなくても、試合に出ても恥ずかしくないレベルにまでは持って行かなきゃなって、ただそれだけ。そういう意味では、明確な目標がある分、集中しやすい環境ではありました。


 手ごたえを感じはじめたのは、古田さんが開幕直後に故障して、急遽呼ばれた94年。たった2ヵ月でしたけど、続けて試合に出られたことで、「1軍でやるっていうのはこういうことなんだ」という感覚も自分なりに分かってきた。


 もちろん、監督は他ならぬ野村(克也)さんですから、プレッシャーもすごくありましたけど、それ以上に「もっと試合に出たい」っていう欲のほうが、だんだん強くなっていったんです。


 ただ、いくら同期とは言っても、古田さんは6つも年上ですし、当時の投手陣からも信頼は絶大でしたから、戻って来られたら、なかなか次のチャンスは回ってこない。だから、そこからは「あきらかにまわりとは違うぞ」ってところを2軍の試合で見せつけようっていう方向に気持ちを切り替えることにしたんです。


 実際、そのときも自分からトレードをお願いしたりはしましたけど、球団側にも、そう易々と「ウン」とは言えない事情はある。だったら、他の11球団の編成が黙っていられないような状況を自分で作ってやろうと思ったんですね。


 当然、1軍に上がって来いと言われたときは、チームのために100%の力を出せるように切り替えはしていましたけど、2軍は僕にとっての品評会みたいなもの。正直なところ、当時は「見てくれている人が絶対いるはずだ」という、その一心で野球をやっていましたね。


■矢野との正捕手争い


 一方、阪神に移籍した03年のシーズンは、自分のことが8割方を占めていたヤクルト時代とは気持ちもまったく違って、チームのためにっていう意識も強かったし、「やることをやっていれば、あの頃よりは試合数も増えるだろう」って想いもあったんです。


 移籍が決まった直後に、ヘッドコーチの島野(育夫)さんから電話をもらって「しっかりやってくれ。今年は優勝できるぞ」と言われたのも、大きかったですしね。


 だから、あの年は矢野(燿大)さんが本格的にブレイクしてしまったおかげで、結果的にはかなりの差をつけられることになりましたけど、「みんなで一緒に優勝するんだ」という一体感を共有できていたという部分においても、ひとりだけ違う方向を向いてしまっていたヤクルトのときとは大きく違う。


 それまでの経験もあって、いざというときに、自分が困らないようにしておけば、それがチームのためにもなるっていう風に考えられるようにもなっていましたしね。


 やっぱり、野球に対する姿勢はみんなが見ていますし、そこで僕が控えであることに腐って何もしていなければ、仮に大きな失敗をしたときに「だから、そうなるんだ」ってことになってしまう。


 ふだんからきっちり取り組んでいれば、同じ失敗でも、「あの人は一生懸命やってるから、しょうがない」と言ってもらえるわけですからね。そういう心構えだけは、常々忘れないようにはしてました。


 あらためて振りかえってみると、古田さんにあって、僕になかったのはカリスマ性だと思います。同じスライダーを投げるにしても、信頼して投げるのと、疑って投げるのではキレも違う。あのときは、どんな捕手が来ても古田さんには敵わなかったでしょうからね。


【PROFILE】

のぐち・としひろ

1971年、千葉県生まれ。習志野高から89年ドラフト外でヤクルトに入団。98年に移籍した日本ハムでは〝ビッグバン打線〟の一角を担う正捕手となり、00年には3割近い打率もマークした。03年からは阪神に移り、矢野燿大の2番手としてふたたびび存在感を発揮した。10年オフに横浜で現役引退。


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