書きたいんで

死に話続けます。笑

 

 

先日少し書いたように

私の実家は先祖供養に

重きを置く家でした。

 

 

でもこれは

先祖への感謝というよりは

 

大きいお墓を建てたり

大袈裟な戒名をもらったり

 

祖父の代で没落した家を

どうにか復興させようとした父の

反骨心から来る自己顕示欲が

その主たる動機だったと思っています。

 

 

没落した時に相当

嫌な思いをしたんでしょうね。

 

お寺に寄進したり

先祖供養をきちんと行うことは

 

父にとって

落ちぶれた家をあるべき姿に戻した、という

ひとつの象徴だったんだと思います。

 

 

なのでお寺関係の事になると

父は普段以上に神経質になり

 

作法や序列みたいなことにも

とてもうるさく

 

ちょうど菩提寺さんも

そういう事の蘊蓄が爆発しているタイプの

お寺さんだったので

 

お葬式や法事なんかは毎回

そりゃぁもうピリピリしたムードで

行われましたし、

 

そうした時になると毎度

父や祖母なんかが「信心深い良い人」を

過剰に演じていたのが

子供ながらに印象に残っています。

 

 

 

そんな中、この家に嫁いで来ただけで

寺にも過去にも特に思い入れのなかった母は

 

そういう緊張感や過剰な反応がツボだったらしく

よく肩を震わせて笑いを押し殺していました。

 

 

当時はまだまだ父が

凄まじい暴君だった時代なので

 

そんな時に笑ったら

大惨事が待ち受けているのに

 

母はツボると必ず私や弟を突っついて

笑いを伝染させ、道連れにするのでした。

 

 

 

 

そんな母の母が亡くなった時。

 

色んな事情が重なって

母が葬儀を執り仕切る事になりました。

 

 

母は葬儀社が提案して下さる

いわゆる「一般的なセット」のほとんどを断って

 

祖母を家に連れて帰り

死化粧や着替えを自分と兄嫁とで行いました。

 

それは涙と笑いの時間でした。

 

 

せっかくだから白装束よりも、と

祖母の着物を上からかけてみるも、

しっくり来るのが見つからず、

祖母の体の上に着物を積み上げたり。

 

死化粧をと、頬紅と口紅を塗ってみるも、

チンドン屋みたいになったと爆笑したり。

 

かと思えば祖母の手を握って

静かに泣き出したり。

 

 

他所の人が見たら

不謹慎だと思われるか、

情緒を心配されそうな事が

色々あったんですけど

 

それはとても

温かい時間だったんですよね。

 

いや、当事者は母ですけど。

私はそう感じました。

 

 

 

 

父が死んだ時は

私と母が立ち会っていました。

 

息を引き取った父の身体を

看護師さんたちが綺麗にして下さって

 

何を着せますか?と問われ

母が渡したのは

 

 

タキシードでした。

 

 

そこら中、癌だらけで

ガリガリに痩せ細った父に

 

まだまだ血気盛んだった頃にあつらえた

ピカピカのタキシードは、全くの不釣り合いで。

 

着せられた父の姿を見て

母と二人、しばらく涙が出るほど

爆笑しました。


父、蝶ネクタイして

旅立ったんですよ?


意味わからん笑




でも。


父がもういよいよだ、となって。

葬儀社が用意して下さるものでいいのに、

 

お父さんに着せる服用意しなあかん!と

多分テンパりながら母が選んだのが

 

タキシードだったんだ、

と思うと

 

なんていう事もないんですけど

なんか、ねぇ。


そうか、と思って。

 

 





 

色んな家族がありますね。

 

悲しみも嬉しさも愛情も

表現はほんと人それぞれで


良いですね。