2月14日(月)、前週のCT検査の結果を聞く為にかかりつけ医の予約をしていましたが、前日の夜病院から電話が
「明日予約頂いてる担当医が、家族にコロナ陽性反応が出て濃厚接触者にあたるため出勤出来ません。ただ、嵐ちゃんの検査結果が1日も早い治療を要するものとなっているので、違う先生にはなりますが予約通り来院して下さい」との事でした。「本来電話でお話しすべきではないのですが、リンパ腫の疑いが濃厚です」とも。
下痢が続いている時点で、その可能性は聞いてはいました。
ただ、電話口でそう聞いた時、手が震えました。
14日、告げられたのは「消化器型リンパ腫」。
即日、抗がん剤治療が始まりました。
端的に説明すると、効きませんでした。
14日と21日に打った抗がん剤(最初に計画していたUW19)に効果が見られず、下痢は酷くなる一方で食欲不振も続き、嵐はみるみる9キロ痩せて、お腹が痛いから外には行きたがるけど、踏ん張る力もギリギリで、出る物もほとんどなくお尻を汚すだけ、ついにはへたり込んで立ち上がれなくなって、夜中や早朝、すぐそこまでの距離を何度も車で迎えに行きました。
車は相変わらず好きで、自分で乗ってくれるので助かりました。
コロナで病院がいつ休診になるかも分からないので、近所の病院にもデータを持ち込んで情報を共有してもらい、抗がん剤治療以外の栄養剤や下痢止めの点滴に何度も通いました。
何も食べてくれないので薬を飲ませるのが大変で、しんどくてへたり込んでいるのに口を無理矢理こじ開けて薬を喉までねじ込み、マズルを押さえてスポイトで水を挿して飲み込ませる。
「イヤな事してごめんね」と言いながら、それでもやらなければならない私の心も、本気で噛まれる手も、ズタズタでした
血便が鮮血になり始め、「2月いっぱいもたないかもしれない…」と覚悟しました
ジャックには介助用ハーネスを、サラちゃんにはカートをそれぞれ借りました
自力で歩けるうちに、大好きな公園にも家族で行きました
お尻を汚して帰る度にお風呂でお尻を洗っていたせいで、嵐は散歩から帰ると自分でお風呂に直行するようになりました。
あまりにも下痢が頻繁で、催してからが早いためヒトが外に出る準備が間に合わず、一人でお風呂に駆け込んで下痢する事も覚えました。
賢くて健気で、本当に可哀想でした
28日、最初に決めた方針を変え、違う薬(ニドラン)を試す事になりました。
これで効かなければ次はない、と言われましたが、結果これが効きました。
今だに完全に固形とは言えないけど下痢ではなくなり、食欲が戻って何でも食べます
薬を包む用にスイートポテトを、食事に混ぜるように野菜やキノコを入れた自家製ペーストをと用意していましたが、恐ろしいスピードで食べて行きます
介助用ハーネスも要らなくなり、体重も少し戻りました
パパがいれば、相談の上で出来る治療は全部する気でいました。
パパが居なくなってから、すっかり尻尾を振る事がなくなった嵐。
楽しい事のないこの世界に、苦しい思いをさせてまで縛り付ける事、抗がん剤治療は私のワガママなんじゃないか、嵐は本当はもうパパに会いたいんじゃないか、こんな治療望んでないんじゃないか、治療費を掛けて貯金を減らして子供達の生活を脅かす事は正しいのか、色んな葛藤がありました。
車を買い換えた事も、パパの遺品を手放す事であり、後悔はないけど寂しかった。
精神的にいっぱいいっぱいだったと思います。
ある夜、娘に「私達(姉弟)の辛い気持ちはママが聞いてくれるけど、ママの辛い気持ちは誰が聞いてくれるの?友達はおるけど、性格的に言えないやろ?私に話してね」と言われ、声をあげて号泣しました
嵐を迎えた時、お別れする事まで覚悟の上でした。
辛くなる事も分かっていました。
でもそれはパパがいたから。
家族として、絆に、思い出に出来る。それも乗り越えられるって思ったからです。
丸く満ちていた私の幸せが、パパが欠け、嵐が欠け、ボロボロと崩れていく実感。
子供達も嵐もいるけど、悩むのも決めるのも自分1人の重い責任と孤独感。
全部1人で背負いきれない!
と、娘にしがみついて泣きました。
娘も一緒に泣いてくれました。
潰れそうな精神状態のまま、過ぎた2月でした。
3月10日は私が45歳、20日にはパパが生きていれば53歳になった誕生日を迎え、今は薬の影響でオシッコが頻繁な事以外は、すっかり元通りの生活が出来ています。
娘が吐き出させてくれたのが良かったのか、嵐の体調と共に私の精神状態も落ち着き、今は改めての覚悟と、穏やかに向き合える気がします。
いつまた急変するか分からないけど、一緒にいられる時間を大切に過ごしたいと思います。