フランスに水爆を届けたスパイ | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

1年振りに更新します。

いつものように週刊誌 L'Obs を読んでいて目に留まった、フランスの水素爆弾に関する記事に興味を引かれてしまいました。

 

週刊誌 L'Obs (旧 Le Nouvel Observateur )の2016年8月11日(通巻2701)に掲載された、 L’espion qui a livré la bombe H à la France (フランスに水爆を届けたスパイ)という記事です。

 

乱暴に言えば、

 

1967年当時、英国は欧州経済共同体(EEC)加盟を認められていなかった。それはフランスのド・ゴール大統領の拒否権による。英国のウィルソン首相は、水素爆弾を保有したがっていたド・ゴール大統領に、テラー・ウラム型熱核爆弾の情報を提供する代わりにEEC加入を認めさせるという取引を提案するが、大統領は応じない。

フランス大使館付武官という肩書のスパイ、アンドレ・トゥルーズはロンドンで、英国の科学顧問ウィリアム・クックを標的として・・・

 

というようなお話です。

 

 

bombe H 1bombe H 2

 

Révélations

L’espion qui a livré la bombe H à la France

Cette intrigue à la John le Carré, toujours couverte par le secret-défense, se déroule en 1967. De Gaulle veut à tout prix l’arme thermonucléaire alors que la Grande- Bretagne est prête à tout pour entrer dans le Marché commun...

 

VINCENT JAUVERT

 

常に軍事機密によって覆い隠されてきた、このジョン・ル・カレ風の筋書きは1967年に繰り広げられる。英国が欧州共同市場に参入する準備が整っている一方でドゴールは是が非でも熱核兵器を欲しがった…

 


それは第五共和制で最も固く守られた秘密の一つである。半世紀前の物語だが、しかし驚くべき今日性を持つ。そこではスパイ行為、原子爆弾と欧州共通市場への英国の参入候補が絡み合う。これまで断片しか知られていなかった、そして今、ロンドンで最近機密指定解除された公文書と『Obs』が初めて、フランスで入手した私文書のおかげで語ることができるようになった、意外な進展を見せる物語だ。
 

 1967年春。英国はまだ、10年前に結成された欧州経済共同体(EEC)の加盟国ではない。それでも同国は加入を夢見ていた。しかし疑い深いドゴールがいた。1963年、フランス大統領ドゴールは、英国首相、保守党のハロルド・マクミランが提出した最初の加入申請に対して、断固として拒否権を行使した。自由フランスの元代表にとって、ロンドンはアメリカ合衆国に依存し過ぎていた。特に最も戦略的な分野、すなわち核兵器に関して。今回、ブリュッセルの門を叩いたのは、意志堅固な労働党のハロルド・ウィルソンである。1967年5月2日、彼は公式に新たな加入申請を提出する。今回はどのようにして、頑固な将軍に受け入れさせるのだろうか? 何でドゴールを釣るのだろう?

 その年、ドゴールの頭にはただ一つのことしかなかった。フランスの核兵器である。攻撃力こそ、第五共和制の創設者の主要な計画だった。間もなく、それは国民国家の生命保険となり、国家元首の王杖となるとドゴールは考えた。しかしフランスの攻撃力はまだその域に達していなかった。確かに、1960年以降、フランス原子力庁(CEA)は既にサハラ、次いで太平洋のムルロアで原子爆弾をテストしていた。しかしドゴールは知っていた、フランス、したがって彼自身が、はるかに強力であり軽量でもある最終兵器、水爆(「核融合爆弾」または「熱核兵器」とも呼ばれる)を装備しない限りフランスの装備が本当に信頼できるものにはならないことを。ところがCEAの技術者たちは捗っていなかった。努力にもかかわらず、この二段式の兵器のシェーマ、より正確には、その発火装置の秘密を突き止められなかった。米軍が1952年に初めてテストし、1954年にソビエト軍が、そして1958年に英国軍がテストしていた秘密を。ドゴールは待ち切れなかった。1967年の初め、CEAの研究所を訪れた際、技術者たちに1968年にはこの種の兵器を爆発させるように要求する。彼は苛立っていた。ドゴールは知っていた。フランスが遅れをとっていて、一方で中国もまた、初めての水爆を実験する準備が整っていたことを。

女王陛下の首相、ハロルド・ウィルソンもCEAの苦難を知らないではなかった。英国軍機が太平洋上でフランスの核実験をスパイしていた。したがってロンドンでは、CEAの技術者たちが、英国の科学者が10年早く発見していた水爆の作動する原理(考案した2人の名を採って後に「テラー・ウラム型」と呼ばれる構造)で躓いていた。ウィルソンは頭を掻き毟る。そしてもし、この奇跡の構造が、連合王国がEECに加入するための鍵、餌だったとしたら? 英国の加入申請提出から数日後、ベルサイユでのドゴール将軍との決定的な改憲の数日前、ウィルソンは秘密裏に一人の使者をフランスに送る。科学顧問、ソリー・ズッカーマン Solly Zuckerman である。その任務は、ド・ゴールに「涎を垂ら」させること。水爆によって。

 

LE GÉNÉRAL PIAFFE

5月28日、ソリー・ズッカーマンは将軍の信頼篤い3人の男と夕食を共にする。軍事顧問、アンリ・ボルダス将軍、核兵器製造所長、ジャック・ロベール、そしてCEAの国際部長、ベルトラン・ゴールドシュミットのである。3人ともロンドンとの巨大な闇取引に乗り気のようだった。ウィルソンに宛てた極秘の報告書にズッカーマンはこう記している。「ド・ボルダスは、我が国が核兵器の分野で最大限に協力するという熱意が、英国のEEC加盟に対する(ド・ゴール)大統領の態度に重要な鍵となり得ると私に(語った)。」 ゴールドシュミットはさらにはっきりしていた。「(彼によると)、フランスの原子物理学研究者が未だに水爆を製造できていないために、ド・ゴールは非常に不安になっている。彼らの問題を解決することを助ける、我々とのあらゆる協力は、したがって大きな価値を持つだろう。」 ウィルソンの密使は彼らに答える。「我々が自ら開発した(熱核兵器の)原理と技術に関して(あなた方に)情報を与えることを我々に禁じるものは何もない」。何も、「政治的合意」以外は。

 2週間後、その合意も間近に見えた。ド・ゴール将軍を最も良く知る人物の一人、戦時中の自由フランスの広報官だった、モーリス・シューマンはパリの英国大使館を訪問する。原子力問題担当相としての資格で、女王陛下の全権大使、パトリック・レイリー卿に、ド・ゴールが「軍事部門における核の協力」に強い興味を示すであろうこと、しかし何も求めないことを打ち明ける。ウィルソン首相に宛て書簡で、レイリーは付け加える。「シューマンによると、あなた方が少しでも手を差し伸べるなら、将軍はその機会を捉えようとするだろう。」 だから、大きな闇取引が起こりそうに見えた。

 6月17日、ウィルソンはベルサイユでド・ゴールと会見する。英国首相はシューマンの助言に従って将軍に「手を差し伸べる」。「我々は核の分野でより多く協力しあうべきだ」、数十年間も機密のままになっている対話の間、彼はフランス大統領に投げかける。「我々の目的は、特に防衛の分野で、フランスもイギリスもアメリカの技術に依存しないことであるはずだ。」 しかしド・ゴール将軍の態度は曖昧なままであり、密かな誘いに応じない。なぜなのか? 英国の指導者を信用していないから? このような物々交換そのものを拒否するから? あるいは、後にCEAにテラー・ウラムの構造図を提供することになり、ウィルソンが健闘した取引を無駄にすることになる恐るべきスパイ作戦を、フランス軍の第2部がロンドンで開始したばかりであることを既に知っていたからか? 

一人の影の男が、このジェームズ・ボンドばりの事件の中心にいる。アンドレ・トゥルーズAndré Thoulouze将軍、最も数奇な運命を辿った人物の一人だ。46歳の操縦士である彼もまた、自由フランスの元闘士である。非常にドゴール主義的で、プレーボーイでもある。公式には、ロンドンのフランス大使館付空軍武官だった。しかし、高級車を乗り回し、最高級のテーラーの服を着ていた。「実際、常軌を逸したスパイだった」と、息子でジャーナリストのミシェル・トゥルーズは今、打ち明ける。カナル+の創立者の一人であり、自分が持っている文書を『l‘Obs』に公開した。「死後ずっと立って、父の功績のいくつかを知った。1950年代、ローマの大使館付空軍武官だった頃、父はイタリア人パイロットとして通っていて、イタリア政府によってナセルに売却された戦闘機をエジプトに届けていた。目的は、エジプトの空港を秘密裏に撮影することだった。その写真はスエズ上陸の際にイスラエル軍に非常に役に立った。後に、父はドイツのラール空軍基地を指揮した。そこはアメリカの核爆撃機を収容していてた。夜間に、アメリカで製造された原子爆弾を、その設計を研究するために、密かに解体させた。」 とりわけ、二つの行動は、防衛機密によって常に隠蔽されてきた。1967年の作戦Hのように。

 その年、アンドレ・トゥルーズはロンドンで、英国エスタブリッシュメントの重要人物の一人と定期的に会っている。サー・ウィリアム・クック (Sir William Cook)、英国国防相の科学顧問である。二人はともに、パリとロンドンが開始しつつあった航空機産業の巨大プロジェクトであるエアバス、コンコルドと爆撃機のエンジンの計画を仕上げることを委任されていた。しかし、数か月の後、サー・ウィリアムはさらに重要な題材でフランス版ジェームス・ボンドの興味を引くことになる。この英国人は軍事研究の大御所である。何にもまして、原子爆弾では。何年か前、彼は英国の核弾頭製造所である、アルダーマストンのナンバー2だった。その任務は、連合王国で最初の熱核爆弾を仕上げることだった。1958年にそれに成功していた。したがってテラー・ウラムの原理も知っている。まさに理想的な標的だった。

 原子物理学者をエージェントとして採用するために、アンドレ・トゥルーズは、秘密資金や陰謀用のアパートメントにより、ケースオフィサーとしての装備一式を利用する。「このスパイ作戦のために、父は無制限の財源を自由にしていた」と、息子のミシェルは語る。「カンヌにアパートメントも買った。玄関が二つある1階の部屋で、クックと父は何時間もの間、秘密裏に会っていた。」 資金はド・ゴールの軍事顧問、ボルダス将軍が流していた。共和国大統領の押印とボルダスの自筆の署名が入った1968年4月11日付の書類に、彼は記している。「1967年から1968年の間に、トゥルーズ将軍は国家の利害に直接関係する問題の中心にいた。このために、共和国大統領と原子力庁が彼に割り当てた目的を達するために使い方が決められた、多くの金銭的手段が個人的に自由に使えるようにされた。」 カンヌのアパートメントの他に、この金が英国人学者に払うのに役立ったのだろうか? 謎である。

 フランス史上最も重要なものの一つであるこのスパイ事件は、その後30年の間、秘密のまま残ることになる。一握りの人々、1987年のクックの死後も沈黙を守り続ける仲間たちにしか知られることはなかった。クックの転向が噂され始めるのは1990年代の終わりに過ぎない。この転向の理由について彼の友人たちに尋ねると、誰もが、フランスに買収されたことなどあり得ない、当然に政府との合意に基づいて行動したのだと断言する。当時、1967年の文書がまだ公開されていなかった頃、こうした説明は納得できるように見えた。今日、ウィルソン首相が英国のEEC加入をテラー・ウラムの設計図を交換しようとしていたことが知られている。この秘密を、何も代価なしにド・ゴールに引き渡すように首相がサー・ウィリアムに命じたなどということは、全くあり得ない。ド・ゴールは結局、1967年11月に2回目の拒否権を行使することになるのだから(連合王国は、ド・ゴールの退任後の1973年にようやくEECに加入する)。

 したがってクックは必然的に、命令なしに行動したのである。そもそもそれは、1990年代初頭にCEA長官だったロベール・ドトレーの意見でもある。2007年に出版された回顧録の中で、彼は40年前に原子力庁ではアンドレ・トゥルーズの交渉相手だったこと、このことから、英国の核物理学者が提供した情報の最初の受領者だったことを明らかにしている。トゥルーズは彼に、サー・ウィリアムの動機を話したとされる。このスパイによれば、ウィリアムは自分の意志でそして…愛国心から裏切ったという。フランスが水爆を保有することを助けたかった、なぜなら「英国が欧州で唯一の熱核兵器保有国のままだったら、ソビエトの核攻撃の全てが英国に集中する危険があるから」。この説明は実に簡潔過ぎるようだ。ドトレー自身によれば、サー・ウィリアムが1970年代を半ばまでトゥルーズに情報を提供し続けたとされるだけになおさらである。彼は熱核弾頭の小型化に関する決定的な情報をトゥルーズに漏らすことになる。この時期を通じて、このような機密をフランス国家から金を支払われることもなく提供したというのは、ほとんど有り得ないように見える。


クックがもたらした情報はド・ゴールの夢の完成に決定的だった。1968年1月23日、CEAの核兵器担当部長、ジャック・ロベールは将軍に現状報告する。その3か月前のエリゼ宮での会見の際、技術者の進捗について楽観的ではなかった。1969年まで、さらに確実には1970年まで熱核爆弾を調整することはできないということだった。今回は、「作動することができる」ように見える「新しいアイディア」、明らかに1967年9月にクックによってもたらされたシェーマについて言及した。さらに、「68年夏には1基か2基の水素爆弾」を発射できると考えている。そして、実際に、1968年8月24日、フランスは最初の熱核爆弾をファンガタウファで爆発させる。「カノープス Canopus」と名付けられた核実験は、広島型原爆のおよそ100個分に相当する2メガトンの威力を発揮する。フランスは核大国の宮廷に仲間入りした。

 アンドレ・トゥルーズは、最後の勤務先であるアエロスパシアル社に所属するヘリコプターの事故により、1978年に死亡する。その死を知った時、ド・ゴール政権の元首相、ミシェル・ドゥブレは、アエロスパシアル社の社長、ジャック・ミッテラン将軍(訳注: 後のフランス大統領フランソワ・ミッテランの弟)に秘密の手紙を書いた。「私は、熱核兵器に関して我々の知識の進歩のために彼が果たした類まれなる奉仕の知る数少ない人間の一人だ。彼は歴史上の知られざる人物の長い続きに場所を占めたが、その役割は特定の状況で必要不可欠だった」と、ドゥブレはこの秘密の親書に記している。ミッテラン将軍がミシェル・トゥルーズに打ち明けるのはずっと後のことになる。

 

L’OBS No 2701-11/08/2016

 

http://tempsreel.nouvelobs.com/monde/20160809.OBS6015/l-espion-qui-a-livre-la-bombe-h-a-la-france.html


個人的には、

「英国が欧州で唯一の熱核兵器保有国のままだったら、ソビエトの核攻撃の全てが英国に集中する危険があるから」« si le Royaume-Uni restait seul en Europe à posséder des armes thermonucléaires, il ris-quait de concentrer sur lui toute attaque nucléaire soviétique » 

というところに重みを感じます。ウィリアム氏が英国を裏切ったのは、それだけではないようですが・・・

 

なお、Wikipedia の「テラー・ウラム型」の、「開発の歴史」の項には、

フランスが開発したテラー・ウラム型熱核兵器については、ごく少しの内容しか分かっていないが、フランスは1968年8月にカノープス作戦として核出力2.6メガトンの核実験を行っている。

と記載されています。

今回紹介した記事や、最近公開された文書などにより、この項目も書き換えられることになるかもしれません。

 

 

最後に、

1年振りにアメーバで「ブログを書く」機能を使ってみましたが、酷く使い難くなっていました。

HTMLで編集しても勝手にタグまで書き換えられるようでは、お話になりません。

しかもページ読み込みは重すぎるし、どうにもなりません。

 

少なくとも、今使っているこの変てこなエディターだけは何とかしていただきたいと思います。