二年前に再オープンした京都嵐山の美空ひばり座。

「和也。ママがこれから和也が眠くなるまでご本を読んであげますから、これを聴きながら寝てちょうだいね」三本のカセットテープには、ひばりさんが選んだ「おいてけぼり」「ねずみの相撲」などの童話が八作品残っていた。地方の仕事で多忙なひばりさんは、一人で寂しく留守番をする息子のために寝る時間を削って録音した。

 テープは和也さんの最後の宝物だった。幼稚園に通いだすと、地方巡業に多忙なひばりさんや祖母と離れ、目黒区青葉台のひばり御殿でお手伝いさんと暮らしていた。

「おふくろが枕元で歌ってくれる童謡とか民謡の五木の子守唄を聴くと、一分もしないうちに眠る素直な子供でした。それが急に一人寝でしょう。寂しさと孤独感で眠れない。結婚した今もそうなんですが、テレビかラジオの音がないと駄目なんです。そんな僕のために、おふくろが旅先で録音してくれた八話の童話テープ。これだけは世に出したくなかったのですが…」

 何でも録音してくれる母だった。「デビルマン」「天才バカボン!」などのアニメ番組を、TVから直接小型のカセットデッキに声だけを録音した。

「朝、洗面所に行くと『ママより』と、手紙とカセットがよく置いてありました。おふくろはメカに強くないから、楽屋のTVのスピーカーに直接マイクを当てたんでしょう。周りの人たちの話し声も入っているし、B面から録音したりするから、途中で切れてA面に続きが入っている。メチャクチャ(笑)

 あるテープの後半には、ビートたけしさんのオールナイトニッポンも録音してありましたよ。僕はアニメの声だけでも嬉しかったですけどね…」

 和也さんは、三歳から五歳まで、ひばりさんや祖母と一緒に地方巡業に同行。音楽よりも、語りの童話テープが好きだった。車の中では、いつも世界名作童話が流れていた。「三匹の子豚」や「シンドバット」などだ。それを聴く間の和也さんはおとなしかった。ひばりさんは、そんな息子の姿をしっかりと記憶していた。

「テープは劣化しますよね。それに切れることもある。だから、もう大切に大事に保管していました。三本のカセットは、いつも僕の枕元に置いてあり、おふくろのテープが終わると、次はTVアニメの声を聴く。今思うと、一人の寂しさの中でも、常におふくろの声が身近にあったから愛情だけは感じていました。最近、若者が親を殺したり、無差別殺人事件が多いじゃないですか。きっと、彼らは僕よりも親と一緒にいる時間は多かったと思いますよ。でも、量より質じゃないかな。僕は離れていてもおふくろと心の交流があった。テープを通しての愛情交換だったと思います」

 幼稚園に上がる前、地方の劇場や会館が和也さんの遊び場所だった。大阪の梅田コマ、名古屋の御園座は長期公演で、旅館やホテルに泊まった。友達もいなくて、いつも一人で三輪車に乗り会場の裏や玄関で遊んだ。あるとき、つい会場の外に出てしまって迷子になったこともある。ただ、ステージを降りた歌謡界の女王は、和也さんの前では普通の母親だった。

「女王・美空ひばりは、本人が望んだものじゃない。あれは、周囲が作りあげたものだと思います。本人が赤い絨毯を敷けとか、出迎えにお偉いさんを並ばせたとか…オーバーな伝説ばかりが数多く残っていますけどね。本人は何も気にしないのに、本当に可哀相なおふくろだったと思います。涙もろい女性でしたよ。宝物のテープを出したのは、京都嵐山のためだけではなく、この童話テープのおふくろこそが一番、母親らしい姿だと思うからです。僕だけのために、童話を読んでくれたけど、すごいと思ったのは、登場人物に合わせて声色を変えています。一発録音なのに、手抜きしていない。完璧なエンターティナー作品です。声は少し疲れているけど、さすが美空ひばりの朗読になっていますよ」

 和也さんは、ひばりさんから口酸っぱく言われたのは●挨拶はしっかり●お礼は必ずする●悪いと思ったらすぐに謝る。この三つだったそうだ。

 和也さんの生まれた71年は、美空ひばりデビュー二十五周年の年。三歳のとき両親が離婚。ひばりさんの弟である父親の哲也さんが賭博やピストル所持で実刑判決を受けて養子となる。ひばりさんも、弟のためにNHK紅白出場辞退。全国の会場使用拒否にあう。でも、固定ファンはひばりさんを支持し続けた。

「僕が三歳からの二年間は、全国の会館回りという旅芸人生活でしたね。当時、一番好きだったおふくろの歌は、公演のラスト曲の『さよならの向こうに』なんです。会場にはミラーボールが回る。僕は嬉しくて、舞台の横から手や足で走るミラーの跡を追う。おふくろが歌い終わると、美空ひばりから僕だけのママになるわけです。家族で夕食を食べて、宿で一緒に風呂に入る。至福の時間でしたね。ご飯も味噌汁も作ってくれなかったけど、童話を読んでくれ、TVも一緒に観ました」

 ひばりさんは、小さいころから天才歌手と呼ばれ「おとなコドモ」と言われた。和也さんも、大人ばかりの環境で育ったので母親と同じ。幼少のころからいろんな出来事を全部自分で飲み込み、消化してしまう。少し冷めた目をした物静かな子供だった。

「小学生になったら、おふくろは自分のママであるけど、みんなの美空ひばりでもあることを、誰に言われることなく理解していました。養子となったときから、祖母とおふくろに『和也がこの家で一番偉いんだから…』と、座る場所も常に上座でした。しかも、正座して食べるようにと…」

 厳しく育てられた和也さんも、小学四年生で祖母。六年で父親。その三年後には叔父も亡くした。ひばりさんのためにたくさん作曲した父親の影響を受け、小学校の高学年になった和也さんの夢はミュージシャンだった。父親の遺品のギターを抱え、中学生からギター教室に通う。コードを覚えたころ忘れられない思い出がある。

「おふくろに、『昴』を弾くからちょっと歌って!と頼んだことがあります。でも、スムーズには弾けない。伴奏が止まるたび、おふくろは何も言わずにジーッと待ち、僕のペースに合わせてくれました。僕は、自分の手先しか見てないし、おふくろの唄さえもよく聴いていない。弾くのに必死だから(笑)おふくろは泣いていましたね。『何で泣くの?』と聞いたら、弟(親父)を思い出したと…。いつか、あんたのギター伴奏で『悲しい酒』を唄いたいわね…が口癖でした」

 これをテープに録音していたら…と悔やむ。和也さんが、高校生からパンク音楽に夢中になると、ひばりさんは「それ何なの?」と、息子の好きな激しい音楽まで聴いた。

「僕が大音響でパンクを鳴らしても、音楽に国境はないから…と、何でも吸収する強い音楽家でした。ジャズ、童謡、民謡…と、いい面は素直に取り入れる。現在、プロデュースの仕事もしていますが、元気だったおふくろのことをいろいろとイジリたかったですね。ジャズを唄うよう提案したのは親父でした。おふくろの語る童話で、朗読のうまさも体感して下さい。そこにはみなさんの知らない美空ひばりがいます…」

 和也さんは、ひばりさんの十三回忌の年に、俳優・浜田光夫さんの娘で、玉川学園の後輩だった有香さんと結婚。今は、和也さんの片腕として事務所経営に参加している。小さいころから美空ひばりとジャニス・ジョップリンの大ファンだった有香さん。今も、ひばりさんのVTRを観てCDを聴くたびに泣くそうだ。生前のひばりさんをよく知る人たちから「最近の有香さんはひばりさんにそっくりね!」と言われる。

「よく働くお嫁さんをもらったわね…と褒めてくれるかな。もう、おふくろの遺品はこのテープで最後です」


 六月になると、つい美空ひばりの歌を聴きたくなる。ジャズのスタンダード曲など、その見事な発音に驚かされる。確か、そばりさんは英語はしゃべれない。学歴は中学卒業だ。日本人のジャズもたくさん聴いたが、ひばりさんほど流暢な英語の歌手にはまだ巡りあっていない。歌謡界の女王は、ジャズの世界でも女王だ。ひばりさんが逝って21年。まだ、彼女は生きている。


地下二階、地上二階。大小五つのシアターがある。その一画で、ひばりさんの声で流れる童話の朗読テープがある。美空ひばりファンにも貴重な遺品のひとつとなっている。息子・加藤和也(38)さんがまだ幼少のころ、子守唄代わりにひばりさんが録音したプライベートのテープだ。三十年ぶりに陽の目を見た逸品だ。