俺が物心ついて最初に買ったアナログレコードはKUWATA BANDの「BAN BAN BAN」だった。そこから「MERRY X'MAS IN SUMMER」、「スキップビート」、「ONE DAY」と同バンドのシングル四連作を揃えていった。小五くらいかなあ。姉の影響でサザンが大好きだった俺はすでにタイトルが多過ぎたサザンよりも始動し始めたばかりのKUWATA BANDをコレクトすることを選んだ。ガキだったし金が無かったからね。で上記のシングル四枚はコンプリートしたってわけ。お年玉でいったりましたわい、ガーンと。つーか金無いんだからアルバムを待てばよかったのだろうが幸か不幸かなんとKUWATA BANDは上記のシングルたちを収録したアルバムを発表しないまま活動を終える。彼らがこの後出したのは二枚組のLIVE盤だけであった。



当然そのライブ盤もチェックしたい、が金が無い。そんな時、当時みんなこぞって頼ったのが今は亡き「貸しレコード屋」である。今現在いったいどのくらいの人間がこの文化を知ってんだろ。まあよくて28くらいの年齢までかな?その歳でも知らない人も多いだろうな...。とにかくCDレンタルのレコード版だと思ってくれればいい。俺は柏の貸しレコード屋めちゃくちゃ通ったなあ。名前なんだっけ、出てこねーや。カセットテープも貸してたね~。当時はまだバリバリカセット文化。ウオークマンがまだ大ヒットしてる時代だったのでレコードかカセット借りて家帰ってダビング、みたいな。みーんなそんな生活してたと思う。






俺が最初に買ったCDはブルーハーツの「YOUNG AND PRETTY」だった気がする。しかもうちにCDプレイヤーはなかったのに、である。なので友達の家でカセットにダビングして聴いていた。迷惑な話である。でもそのくらい当時は「音が劣化しない」ことは新鮮な驚きだった。何百回聴いても音が悪くなんないなんてそんな夢みたいな話が現実に!?なんて時代なんだ、未来だ未来だ~!未来がやってきたぞ~!当時誰もが本気でそう思ったもんだ。ウケルよね、でもホントの話。ウオークマンをヒットさせていたSONYはDISCMANを発表し、ラジカセやコンポやカーステにCD再生機能が付き、貸しレコード屋は徐々に貸しCD屋へと姿を変えていった。時代が変わり始めたのだ。ゆっくりと、だが確実に。ほどなくしてバンドブームが訪れる。俺はロックやパンクにのめり込んだ。






CD文化も三年ほどであっという間に定着した頃、俺は思春期に突入してガキの頃とは違う意味で再びアナログレコードを手にする。なんという逆行!つまり俺がついにヒップホップと出会ったということだ。最初に買ったのはムロ君の「DON'T FORGET TO MY MAN」、JUNGLE BROTHERSの「40 BELOW TROOPER」、BIZ MARKIEの「LET ME TURN YOU ON」の三枚の12インチ盤だった。今は亡き渋谷ファイヤー通りの「DJ's CHOICE」に高校の制服で行って買ったのも覚えている。店員はかのMAKI&TAIKIであり、俺と同い年ですでに名古屋から上京しMICROPHONE PAGERのメンバーとして活動していたPH FRONが店内でいつも将棋をしていたっけ。おそらくその頃の日本はいわゆる「バブル」絶頂期だった。俺のまわりはチーマーかダンサーかDJばっかだったな...。ちなみにラッパーはアマチュアでは皆無だった。学校帰りに制服でレコード屋の袋を持ってるのがクールとされて、誰もがそうした。俺はといえば家で使っていたアナログプレイヤーはとっくに使えなくなっていたのでツレのレコード棚に置かせてもらっていた。そのツレんちに行くたびにミックステープを作って帰っていた俺にはそれでちょうどよかった。ターンテーブルとミキサーは当時の俺には高価過ぎたのだ。



そして俺は路上のBボーイとなり、今へと繋がるストリートの知識や教養を吸収しながら耳と目を肥やしていった。渋谷はアナログレコードの深みのある音像に虜になったマイノリティたちで溢れかえり、大変な活気だった。また良作がドサドサと毎週のようにリリースされるUSヒップホップ黄金時代でもあった。いわゆる90'S ヒップホップである。この当時に俺たちがヒップホップから学んだことを一言で言うなら「温故知新」、これに尽きる。アナログ文化は過去の遺産を尊ぶ文化でもあった。過去が無ければ今は無い、という当たり前の心理を音楽を通して教えてもらったのだ。脈々と続くアフロミュージックの系譜の上にヒップホップは燦然と君臨していた。言いたかねーが、いい時代だった。

(後編に続く)