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細野辰興監督の新作映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』を観た。とてつもなく面白い。激しく揺さぶられた。傑作である。去る2016年12月4日にネット世界を駆け巡った映画批評記事が謳う「今年の大収穫」という賛辞に嘘偽りはない。

昭和の大スタア長谷川一夫の顔切り事件を映画化しようとする映画監督と、そのプロデューサー、役者たちのあいだで壮絶に繰り広げられる真剣勝負のやりとり、コミュニケーションを通じて、この国の芸能文化のありようと、それをつくること、演じること、さらには観ることの覚悟を痛烈に問う、きわめて挑発的で、なおかつ、言葉の真の意味においてまことに啓蒙的な、日本映画史上まれにみる大問題作である。まさに今年(注:2016年)最大の収穫であり、このような異色の映画が製作され公開されたことは、ひとつの大きな文化的事件といえるだろう。


映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』──これは細野辰興の『人間蒸発』である。

細野さんの師匠である今村昌平監督が1967年に発表されたドキュメンタリー映画『人間蒸発』。失踪した人物を、その妻とともに探し求めるうちに、映画はいつしかドキュメンタリーとフィクションの境界を越え、ついには、同行の役者も、監督やスタッフも、そして観客一人ひとりも、おそるべき仮説あるいは真実にたどりつき、人間存在の闇を直視することになる──。

高校時代に封切で拝見したこの傑作は、個人的に、自分の将来の人生を映画という「魔物」に委ねて生きていくことを決意させてくれた重要な一本となった。

細野さんは、この、師・今村昌平監督の『人間蒸発』とはまったく別の入口、違った方法論から入りながら、しかし、師匠がその『人間蒸発』で切り拓いた、フィクションとドキュメンタリーの融合と止揚、それによって獲得した、人間と人間社会に対する深い洞察・探究の成功という地平に、おなじように到達し、しかも、大きく超えている。賞賛に値する成果、達成度である。


2時間23分の長尺だが、まったく飽きさせない。それどころか、ぶっちぎりのハイテンションで一気呵成にラストまでぐいぐい引っ張っていかれる。設定もほとんどが芝居の舞台と楽屋に限定されているというのに、おそろしく動的な映画的展開、映画的快感に満ちている。徹頭徹尾 緊張感とスピード感にあふれた、スリリングな物語体験を享受することができる。

知的エンタテイメント冒険大活劇!

私はそう呼びたい。このすさまじい熱量は、いったいなんなのだろうか。細野辰興が放った劇薬は、いまも私の脳を痺れさせている。得がたい体験をさせていただいた。

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細野辰興監督は、その師匠の今村昌平監督ゆずりの、たいへんな調査魔である。脚本で私が参加した『安藤組外伝  群狼の系譜』でも、合宿におけるハコ(構成)づくりは細野監督の強力な主導のもとで行なわれたのだが、その、ヤクザ社会をはじめとした日本の裏側その他に関する徹底した調査、厖大な知識には、舌を巻いたものだった。その求道家ぶりが、この新作にも遺憾なく発揮されている。なにしろ厖大なデータ、情報量なのである。

そしてその仕上がり、テイストは、これまでの細野さんのどの作品ともまったく違ったものになっている。こんな面があったとは。そうびっくりさせられた。なんと多くの引き出しを持った作家であることか。そう驚かされた。

狂っている。細野さんと私の共通の知人も言うように、これは、細野辰興監督全作品のなかで最も狂っている。もちろんその「狂っている」は、私たちの世界では最高の賛辞である。ホドロフスキーやカラックスらにも通じる、尋常ではない狂気を、細野さんのなかに見た。


今年(注:2016年)はメタ構造映画の当たり年だった。榊英雄監督による『裸の劇団』2部作。江本純子監督の『過激派オペラ』。いずれも示唆に富んだ優れた映画だった。演劇と映画について深く考えさせられながら拝見した。しかしやはり極めつけは、この『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』だろう。

粒ぞろいの役者たちにも感動させられた。福島拓哉監督の傑作『アワ・ブリーフ・エタニティ』での凄さとはまた別のうまさを見せてくれた草野康太さん。篠崎誠監督の傑作『SHARING』でのうまさとはまた違った凄みを見せてくれた山田キヌヲさん。さらに、脇の隅々に至るまでのすべての役者が、文句なしに素晴らしい。

そして、映画全体から見て劇中劇にあたる“芝居の舞台”では、それら役者たちの芝居にあくまでも“演劇的な”演出をほどこし、どこまでも“舞台の芝居”として演じさせて、重みと同時に軽みを持たせた絶妙のトーンで展開しきった、舞台演出家としての細野さんのセンス、力量にも目をみはらされた。映画と演劇は別のものである。そのことを細野さんはよくわかっている。それが見てとれて、うれしかった。


私は学生時代は映画サークルとともに演劇部にも籍を置き、以来、演劇に深くのめり込んできた。それゆえ演劇には一応の一家言を持っている。だから、たとえば望月六郎監督や深作健太監督、井上泰治監督のように、演劇(やミュージカル、オペラ)に、映画とはまた違った芸術文化ジャンルとして、そのための舞台演出家として、きっちりと取り組んできておられるかたはべつにして、ここ数年、映画監督仲間の多くが陥ってしまっているところの、「映画を撮れるまでのあいだの、映画の代用品としての演劇」というとらえかた、考えかた、関わりかたには、いささか思うところがある。それゆえ、細野辰興という敬愛する映画監督の、演劇への長年にわたる取り組みについても、失礼ながら、なんでまたあの細野さんまでもが演劇をと、遠目からそのご様子をうかがう程度にとどめていたのだった。

それが、今回の映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』のなかに見事なまでに巧妙に仕組まれた、昨年(注:2015年)東京で実際に上演されたという、細野さんご自身による作・演出の芝居を拝見して、みずからの不明を恥じることとなった。細野さんはまことに正しくも演劇を映画とはべつのものとしてとらえ、脚本家ではなく劇作家として書き、映画監督ではなく舞台演出家として劇を創造されていたのだ。映画と演劇はべつのものであるということを、細野さんはよくわかっている。芝居の仕上がりを見れば、映画と演劇の双方にかかわった者であれば、それはすぐにわかることである。驚いた。うれしい驚きだった。当方はスタニスラフスキーもブレヒトもストラスバーグもチンプンカンプンで、ただやみくもに、見よう見まねで劇作や演出や演技に突っ走ってきただけの者なのだが、細野さんはいったいどのようにしてこれほどまでに幸福なかたちで演劇との出会いを果たされたのだろうか。

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そして細野さんは、その自らの芝居を、今度は脚本家・映画監督の目でとらえ返し、対象化して、その謂わば一粒の種から、いくつもに枝別れした巨大な木を育て、その枝のひとつひとつに絢爛たる花々を咲かせてみせたのだ。

だから、そのようにして生まれた新作映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』のなかの“舞台”は、けっして単純な“劇中劇”ではない。

外に向かって幾重にも張り巡らされたレイヤーのひとつひとつの原子配列には、それらレイヤー群の中核にあたる“舞台”そのものの原子が内在しており、それゆえ、中核も含めたすべてのレイヤー(いちばん外側の “そのレイヤー構造を仕掛けている細野辰興という存在” というレイヤーまで含めて)が互いに激しく化学反応を起こし、その総合として生まれた、かつてない新たな原子配列を獲得した物質、謂わばモンスターを私たち観客は目にしている──そういう構造になっているからだ。だから『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は凄いのである。

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細野辰興監督は私のつたない城戸賞シナリオに映画化のオファーをかけてくださって以来の畏友、盟友だが、今度ばかりは心底驚かされた。映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』──昨年(注:2016年)公開された邦洋全映画のなかの最高傑作だ。細野辰興、見直した!──である。

いや、「見直した」では失礼にあたるだろう。それではこれまで本当はどう思っていたのかということになってしまう。

細野辰興、惚れなおした!   ──これが正確だろう。

この「惚れる」という言葉が適切なのには、さらにワケがある。

映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』──これは細野辰興監督が織り上げた究極の愛の物語だからである。男と女の、男と男の、女と女の、友と友の、ものをつくる者同士の、ものをつくる者とそれを観る者の、ものをつくる者とそのつくられていく芸能そのものとのあいだの、狂おしいまでの恋、愛、惚れるということについての物語だからである。

それゆえ私は細野辰興に惚れなおし、こうして長い恋文を書いているというわけだ。

映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は、究極の恋愛映画である。だから、最も盛りあがる決定的場面で、あの名曲『恋唄』(内山田洋とクールファイブ)が流れ、響きわたる。まことに心憎い選曲、演出である。鳥肌が立ち、嗚咽が止まらなかった。


演劇ファン、映画ファン、また双方それぞれのつくり手や演者、関係者、さらには、そうしたことにこれまで関心がなかったかたも、つまりはこの国に生まれ育ったすべての人が、みずからに引き寄せて、存分に楽しみ、深く考えさせられる作品になっている。

なぜなら、詳しくはのちに述べるが、この映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は、「日本の芸能」というものを通じて、私たちのこの日本という国そのものの核心に迫っているからである。

フィクションとノンフィクション、虚構と現実、演劇と映画が、何層にも入り組んだ複雑な構造の中でからみあい、しかしけっして難解ではなく、わかりやすい娯楽エンタテイメントの、しかも情念に満ちあふれたリアルで濃密な超弩級のこの作品は、鑑賞した人のだれもが、それぞれ自分なりの問題として受けとめ、かならずや魅了されることだろう。それが証拠に、昨年2016年末の初上映時には口コミが連鎖して、日を追うごとに鰻登りの動員ラッシュを記録したという。

私たちはだれもが、複数の立ち位置に立って、複雑な人生を生きている。生きることはたいそう厳しく、とてもつらい。だが私たちは、なにがあっても生きつづけなければならない。映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は、そのことをも見事に語っている。生きていくことへの決意表明を謳いあげている。高らかな人生賛歌になっている。

人は“あなた”という役を降りることはできない。

──映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』の宣伝惹句である。この映画の本質を的確に言い表している。私たちはつねに自らを演じつづけ、そこから逃げることはできないのだ。けだし名言である。

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鑑賞した映画について文章を書くとき私は、書き終えるまで、その作品に関する評論や批評は読まないことにしている。もちろん私のは評論や批評といった立派なものではなく、おなじ作り手の立場から見た感想文や応援文にすぎないのだが、やはり人の意見に左右されたくはないからだ。

それでもこの『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』の場合は、いやがおうにも、その反響の様子が、各方面から刻々と伝わってきた。それほど絶賛の嵐なのである。しかし、つぎのことについては、いまもとくに聞こえてはこない。事の性格上、あまり語られてはいないのだろう。しかしこれが、映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』における最も重要な点なのである。

つまり──

日本の芸能の成り立ちの深層にかかわる三つの大きな要素、それはつまり日本社会のありようそのものの反映であるわけだけれども、このデリケートな部分に真正面からふれていることである。

細野辰興監督が長谷川一夫襲撃事件に取り組むとの風の噂をずいぶんまえに耳にしたとき、はじめに気になったのはそのことだった。あの事件を扱うとすれば、日本芸能史上最大の事件を描くとすれば、この、日本独自の芸能の出自にふれないわけにはいかないだろう。避けては通れないはずだ。いったいどのように作品化なさるのだろうか──。

結果は見事なものだった。さすが細野さんである。映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は日本の芸能の核心に、誠実に、適切に、さらに溢れんばかりの愛をこめて向きあっている。そして、その日本の芸能というものを、なにもかもすべてひっくるめて引き受け、さらに愛していこう、創造しつづけ発展させていこうと、高らかに宣言しているのだ。

映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』はどういう話なのか──。

そんな魅惑的な謎かけが、さきごろ細野辰興監督から発せられた。観客の一人である私もまた、この問いに答えねばならないだろう。

映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は多くのテーマとメッセージを投げかけてくれている。だがしかし、つづめていえば、これは「日本の芸能の核心を突く物語」である。劇中の風間重兵衛監督と、外側の細野辰興監督は、日本の芸能をふり返り、見つめなおし、そして、それに対して至上の愛を告げたのだ。

日本の芸能の核心にふれることは、日本社会の構造そのものを直視することに通じる。この映画が、すべての日本人、および、ともに日本に生まれ育ったすべての人々の、その胸に深く沁み入る所以である。

さて、以上のように多くの果実を実らせた傑作『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は、その強い力によって、みずから幾重にも仕掛けたレイヤーのさらに外側に、まったく新しいひとつのレイヤーを、外から呼び寄せたのだった。

話は冒頭に戻る。

去る2016年12月4日、映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』を「今年の大収穫」と その見出しで称賛した一本の記事が、またたく間にネット世界を駆け巡った。

お気づきだっただろうか?   これを掲載したサイトの名は『シネマズ by 松竹』といった。演劇・映画製作会社の松竹が、直に運営するサイトである。そう、その記事にまさに「当時、長谷川(一夫)は松竹から東宝へ引き抜かれたばかりで、そういったことも何か関係していたのかもしれません」とあるように、また映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』のなかでは「竹梅(ちくばい)」と語られているところの、あの松竹なのである。

松竹にとってはタブーであるはずの長谷川一夫事件をめぐる刺激的で挑発的で啓蒙的なこの大問題作を、ほかでもない当の松竹が記事に取り上げ、称賛し、世界に向けて発信している──。

私はこの称賛の見出しと「松竹」の文字が居並ぶさまを目にして、その瞬間、震えあがるほどの衝撃を受けた。そして、まだ観ぬ『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』の完成度を確信することができたのだった。

長谷川一夫貌斬り事件の真相に迫ろうとした風間重兵衛監督と、それを仕掛けた細野辰興監督の企みは、見事に成功したのである。

映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』は、その充実度と説得力によって、あらたなレイヤーを松竹自身から引き出した。風間重兵衛監督と細野辰興監督の執念の勝利である。

(了)

(全10回をひとつにまとめました)


(2024年1月4日 追記)  以下は本稿投稿当時の情報です

〇映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』(細野辰興監督:草野康太、山田キヌヲほか出演)は、きょう1月14日(土)より福岡の『中州大洋劇場』にて上映が開始されました。福岡とその近隣の皆さまにおかれましては、この機会に、十年に一度級のこの超絶大問題作をぜひご覧ください。映画ファン、演劇ファン、双方それぞれのつくり手や関係者、必見の傑作です。

〇中州大洋劇場公式サイト
『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』ページ

〇映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』公式サイト

〇映画『貌斬り KAOKIRI  〜戯曲スタニスラフスキー探偵団より』予告篇

#貌斬り  #細野辰興




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