昭和の大スター 勝 新太郎さんの 17回忌を偲ぶ会が


先日、 横浜スタジアムのそばにある 「ロイヤルホール ヨコハマ」


行われました。


さすが 勝さん! お越しになられた方々は 総勢 341名。


お招きした方々の 100% がご出席されたそうです。


現在も 第一線で 活躍されている 俳優の方々をはじめ


各界から 親交のある そうそうたる方々が いらしておりました。


デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba


竹を 厳か かつ 豪快にあしらった 会場の装飾も


とても 斬新で 素晴らしく、 見る人の眼を 惹きつけていました。


徳光 和夫さんの司会で、 偲ぶ会が 始まりました。


最初のご挨拶は、 発起人代表の 藤木企業株式会社


取締役会長 藤木 幸夫氏 でした。


藤木氏は 横浜で長年に渡り 事業をされており、


勝さんが 山手に 4~5年間 住んでいた頃からの おつきあいとのこと。


何故、 この偲ぶ会を 東京ではなく 横浜で開催したのか、


その理由を お話しくださいました。


皆さん、 横浜の "本牧" というところをご存知ですか?


"本牧"も 太平洋戦争で 爆撃により 大きな被害を 被りました。


昭和20年当時、 住む家も焼かれ 家族を失った 人々が沢山いました。


親を亡くし 身寄りのなくなった子供たちも数多く、 そのような子供たちの


ための施設 「風高こども園」が 本牧に造られたそうです。


この孤児院には 常時 40~50名の子供たちが 生活していました。


しかし、 昭和60年頃から 地方自治が崩壊し、 財政的に 施設の存続


自体が 厳しい状況になってしまったのです。


子供たちは お三時の楽しみも無くなり、 建物の老朽化により


お風呂にも入れず、 日常生活に 不自由をきたすようになりました。


そんな状況を 藤木氏から 聞いた 勝さんが、 


「何とかしてして あげたい!」 という思いから ディナーショーを企画し、


行った場所が この 「ロイヤルホールヨコハマ」 "ベルサイユ"の間 


だったのです。


勝さんは 「風高こども園」が必要とする資金 1000万円を作るために、


一人3万円のチケットで 400名 (1200万円) を集めようと


ステージを行うための 諸々の費用を 全て 負担されたのです。


そして 出演者、 裏方さん方 全員も 勝さんの男気に惚れ、 全て 無料で


引き受け、 かけた経費は わずかなチラシ代だけ だったそうです。


さらに 勝さんは、 「風高こども園」 平野恒子園長に 現金100万円も


会場で 直接手渡され、 子供たちを 救ってあげたのです。


このエピソードを聞いて 勝さんの 知られざる一面を知ることができ、


参加者の皆さまは 一応に感激、 感銘を 受けました。


勝さんが いかに 慈悲深く 心温かい方であり、 この隠れた行為に


そのお人柄が 偲ばれました。



次に ご挨拶された 神奈川県知事の 黒岩 祐治氏も


実際に 勝さんに お会いしたことがないそうですが、


国民のスターとして いかに 偉大な存在であるかということを


「総理大臣の代わりはいても、 勝 新太郎の代わりはいない」


ということばで語って おられました。



親友であり、 悪友であり、 一緒にマリファナ・・・ という津川 雅彦さんは、


「自身が低迷し とても 苦しかった時に きめ細かい心遣いで 温かく


元気づけたくれたのが 勝さんだった」 と、 豪快なイメージが強い


勝さんの 別の顔を 話して下さいました。


仕事も無く 六本木をブラブラしていた時、 キィーッ! 音をたてて


一台の車が止まり 出てきたのが 勝さん。


そして その時 「雅彦に出会った時、 渡そうと思っていた」 と


くしゃくしゃになった 新聞記事を 財布の中から取り出して 津川さんに


渡されたとのこと。  そこには 「『唐草牡丹』 は "高倉 健"、


『座頭市』 は "勝 新太郎"、 『ぼんち』 は "津川 雅彦"・・・」 と書いてあり 


どん底にいた自分を 救い上げてくれた 今でも忘れることのできない


エピソードであり、 「今の自分があるのも あの時の あの言葉のお陰だ」 と


大変 勇気づけられたその時の思いを 語って下さいました。


その夜 もちろん 勝さんに ご馳走になり、 大いに 話しあったそうです。


つまり いつ出会うかもしれない 津川さんのために、 その新聞記事を


いつも持ち歩いていた 勝さんの 粋で 温かい思いやりに


皆、 胸が キューっ! と 熱くなってしまいました。


また、 きめ細かい 勝さん と 大雑把な 中村玉緒さん、 対照的な 2人


だったから 夫婦仲も うまく(?) いったのだろうとも おっしゃっていました。


この時のエピソードも 大変 面白いものがあり、 会場は 笑いの渦に


引き込まれました。



3名の方々の 素晴らしいスピーチに続き 献杯されたのは


山野学院 総長 山野 正人氏でした。


「勝さんは "俺流"の 破天荒で 豪快な 人生を送られた方。


残された家族の方への お土産 (借金)も 相当なものだった


のではないでしょうか? 」 と。


妻の 玉緒さんが その片づけのために 奔走し、


7回忌までに 何億という "お土産" を清算されたそうですが、


その 最後の一人となったのが 山野氏。


玉緒さんは 山野氏に会った時、 「全て 片付きました。 


残りは 山野会長にだけです。」 と 言われたそうですが、


山野氏は 「勝さんは 僕の パートナーだったから。 


借金なんか 無いよ」 と全てを 帳消しにされたそうです。



勝さんをめぐる想い出話は、 まだまだ 続く様子でした。


しかしながら、 私は お仕事のために どうしても 途中退座を


免れることが出来ず、 大変 残念な思いで 会場を あとにしました。


この後、 勝さんを偲ぶ どんなお話を 伺うことができたのか


想像するだけでも 本当に 残念ですが、


それだけ 勝さんが いかに 多くの人々を魅了し、


今もなお その輝きを 放ち続けているのだということを


感じました。


本当に 勝 新太郎は、 往年の大スターですねビックリマーク