皆さま ごきげんよう


かねてから病気治療中の マイファミリーの 「ファビオラ」が

2014年9月15日 午後3時30分、 永眠いたしました。

  (左 ファビオラ 右 娘フィオナ)
  
  
2001年10月16日生まれ ニューヨークから 日本へ連れ帰った子。

私のN.Y.の住まいのすぐ側に アメリカン・ケネルという店がありました。

私のN.Y.での 最初のワンちゃん マルチーズの「レオ」と

シルバーのティーカップ・プードルの「 サブリナ」は

ここから来ました。

「ファビオラ」と目が会った瞬間、 幼く小さかった「ファビオラ」は

私の方へ 歩いてきました。

「連れて行って」と 言わんばかりに ・・・

私は この美しい 赤い狆を抱き上げ、 東京へ。

  (左 ファビオラ  右 太郎)

東京の家には すでにマルチーズの「レオ」と ティーカップ・プードルの

「サブリナ」、 娘の「ルル」がいました。

「ルル」は ママ、パパに 可愛がられて育ったせいか 威張っており、

後から来た「ファビオラ」が 気に入らず イジめておりました。

しかし 「ファビオラ」は いつも気高く応じ、 犬ではないのかしらと

思うほどでした。 彼女は 教えなくても 初めからシートで

用を足し、 いつもエレガントでした。

 (上 ファビオラ 下 プリンス)
  


美しい毛並、 吠えることもせず、 お行儀よい「ファビオラ」を

私は ことの他 愛しました。 「ファビオラ」は 何か 神がかっており、

他の犬と 全く違っており 気品に満ちておりました。

それこそ 誰かの生まれ変わり、というような 美しい「ファビオラ」は

私の自慢の娘でした。 彼女を連れて モンテカルロ、サントロペ、

サルディニアも行きました。 

友人の 大きなヨットでも 彼女は 大人気でした。

 
  


その「ファビオラ」が 乳がんに。

初めの手術の時は 良性と言われ、 安心していたのですが

2度目の手術の時、 悪性と言われました。

そして 肺に移り、 後足も弱くなりました。

東大病院の 先生方に 出来る限りのことをして頂けましたが

6月には もって2ヶ月、 8月末には 駄目かもしれないと

いわれました。 でも彼女は 頑張りました。

呼吸の苦しさに耐え、 よろよろしながらも 

シートまで行き 用を足していました。 

時々 酸素吸入のため 特別にしつらえた 箱の中に

入れてあげ、 時間のある限り 私の膝の上で

抱っこしながら  私は仕事をしていました。

抱っこして なぜてあげると、 嬉しそうに 喉をならしていました。

しかし、 最後の頃は 栄養分の濃いジェリーしか

食べられなくなっていたのですが 死の2日前、

美味しそうに小さく切ったハムを 口を動かし 食べました。

しかし  死期は目にみえており、綺麗好きだった
 
「ファビオラ」を シャンプーの入った ぬるま湯につけ、

そして 2度ほど すすいであげました。

目から 生気は 段々と 消えてゆきましたが

美しい「ファビオラ」は そのままでした。 そして「ファビオラ」は

ゆっくりと 苦しみから解かれ、  天使となりました。

 
  

ピンクのお棺の中の 「ファビオラ」

 
  

翌日10時 深大寺へ

 
  

最後のお別れです。

 
  

花にうずもれた 「ファビオラ」

 
  

友人、 オフィス・スタッフと共に 「ファビオラ」を 見送りました。

悲しい別れです。 美しい ファビオラの 長い長い尾の毛を 

ハサミで切り、 形見にとっておきました。
 
 
  

Fabiolaちゃん ありがとう 愛しているよ

これ  今、 書いていて ママは泣いているよ

悲しくて 悲しくて 泣いているよ

 
  
 
いよいよ 火葬の時がきました。  悲しい別れです。

最後の別れを 告げる時、 Fabiolaが 動いた気が!

〝生きている〟と、 一瞬 声にしてしまいました。

 

 

戸が閉ざされました。

生き物を飼うということは 「悲しい別れ」が来るということです。

私には まだ 14匹残っています。

最後の一匹を看取るまで 私は死にません。 
 
 

近くの  「水神苑」で 精進落としをして 帰宅しました。