和癒師えんです。
10月27日と28日の体験を、
なぜだかわからないままにどうしても記事に書きたくて、
書きながら手探りしているうちに浮き彫りになってきたこと。
和尚さまを見ながら感じていたこと。
生きとし生けるものを、
目に見える形でとらえずに、
エネルギーとしてとらえると、何もかもが腑に落ちる気がした。
自分自身もまたエネルギーで、
それを意識することなく無駄にすることなく迸らせることのできる何かをずっと探してきたんだなと思う。
伝統的なものに惹かれるのは、
長い年月をかけて、
それを具現させるために方法や型を磨いてきたものだから。
ひとに触れること、
掌で癒すこと、
身体表現であるバレエも、
言語表現である書も、
音楽表現の篠笛も、
その道の達人たちは、
磨き続けた結果もう体そのものがその表現媒体として最適な状態になっていて、
自由に発現することができていて羨ましい。
器自体が、最適さを獲得していれば、
無駄がなく効率的に、
瞬時に
エネルギーを発現できる。
自分のエネルギーを持て余し、
どう扱ったらいいのかに戸惑い、
道を探してきた私のこれまでの道。
ようやく、
羨ましいと思えるほどに、
求める在り方が見えてきたのかなと思う。
修験のひとの
火を、
水を、
山を、
ひとを、
受け容れてその中で寛げる在りようのなかに、
自分もまたそうありたいと求めてやまない日本人の精神性が宿ってる。
自分の中にもその精神性はあって、
その出口を探してきたんだと思う。
自らを”和癒”と名付けた時に、
そうでありたいという願いを込めた時に、
”和癒”って何だろう?
どうやったら体得できるだろう?
そんな謎かけを自分に課して、
生涯かけて求めていこう、そんな想いを込めた。
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自然を受け容れ、自由なエネルギーでいること、
唇や、指や、身体や、思考の癖をそぎ落とすことに注力し、エネルギーを現すこと、
もういい加減十分なおとなになって、
具体的なジャンルと、
ようやく自分の”珠”の磨き方の術が腑に落ち始めて、
場所や時間、
置かれた状況や立場に寄ることなく、
いつでもその”珠”を輝かせられる、
“自在さ”
を、
得てそして伝えていきたい。