相撲のルーツはヤコブと天使の格闘

相撲(すもう)は日本の国技とされているが、沖縄でも沖縄角力(おきなわずもう)が盛んで、各地で行なわれる夏祭りでは角力大会が催されている。沖縄角力は、王朝時代に盛んになり、歴史を誇る伝統文化の一つである。方言ではシマとも呼ばれ(ウチナー・ジマともいう)、沖縄に古来から伝わる格闘技の一つである。その立ち合いは四つに組んだ状態から始まるもので、ヤマトの相撲よりもモンゴルの角力と似ていると言われている。

 沖縄角力はヤマトの相撲と以下の点が異なる。

1.お互いに組んでから、技を掛け合う。

2.張り手、突っ張り、喉輪攻め、蹴手繰り、二枚蹴りなどの打撃による攻め手がない。

3.裸に廻しをつけるのではなく、柔道着に似た服を着て行なう。*ヤマトの相撲も江戸時代以前の娯楽では、着衣で行なわれた絵図がある。

4.土俵が無い。*ヤマトの相撲も江戸時代、享保以降に土俵が作られた。(ウィキペディア「シマ」から)

そして、その沖縄角力もヤマトの相撲も、ルーツは古代イスラエルにあると言われている。イスラエル民族の三大父祖に、アブラハム、イサク、ヤコブがいるが、その「イスラエル」という名を神から頂いた出来事が、父祖ヤコブの時代である。そのヤコブが神の使いと格闘した(相撲をとった)という出来事が聖書に記されている。その時に、ヤコブは、神からイスラエルという名前をいただいたのである。

ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』『お前の名は何と言うのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」(創世記32:23-29

ここでの「何者かが……格闘した」の「何者か」が、「神の使い」である(ホセア12:4-5)。このヤコブが神の使いと格闘した(相撲をとった)という出来事は、イスラエル民族にとって、非常に重要なものである。その時から、イスラエルという名前と、神からの祝福が与えられたからである。この相撲に勝ったということがあったからこそ、ヤコブの子孫であるイスラエル民族が「神の選民」となったとされている。つまり相撲は、ユダヤ人にとって忘れてはならない、民族にとっての重要な史実なのである。


沖縄に見るユダヤ文化

沖縄角力は四つに組んだ状態から始める。


沖縄に見るユダヤ文化

ヤコブと神の使いの相撲。祈りの格闘と言われる。「ヤコブと天使の闘い」ウージェーヌ・ドラクロワ画。



相撲という名前の由来は何であろうか。スモウは「相撲」、「角力」などと、漢字で書くが、どうやら当て字のようである。興味深いことに、旧約聖書には、原語のヘブル語で「シュモー」とか「スモー」という言葉が何度も出てくる。その意味は「彼の名前」という意味である。現在のヘブル語でも「シュモー(スモー)イスラエル」というと「彼の名はイスラエルです」という意味になる。

また相撲で使われる「ハッケヨイ、ノコッタ」も日本語では、ただのかけ声のようにしか思えないが、不思議なことに、これもヘブル語で理解できるのである。「ハッケヨイ」「ノコッタ」はヘブル語で「ハッケ」=「なげつけろ」、「ヨイ」=「やっつけろ」となり、「ノコッタ、ノコッタ」=「投げたぞ、やったぞ」いう意味となる。まさに相撲をとる場面とぴったり当てはまるのである(「新説!みのもんたの日本ミステリー」テレビ東京)。

中東と日本をつなぐシルクロードの地域に、相撲の風習が点在していることも「相撲のルーツがイスラエル」という根拠の一つとなっている。モンゴル相撲の「ブフ」、韓国相撲の「シムル」は有名である。

相撲では、取り組む前に土俵に塩をまく。これも土俵を清めるためであり、これもイスラエルの風習と同じである(「塩で清める」を参照)。欧米人などは、土俵に塩がまかれるのを見ても、何の意味だろうと思ってしまう。しかしユダヤ人なら、即座に「それは清めのためだ」と理解するのである(『日本・ユダヤ封印の古代史』ラビ・マーヴィン・トケイヤー著)。

考えてみると、相撲の行事は、運動会などではなく、村や集落の祭りの一環としてやることが多い。なぜなら相撲は、単なるスポーツではなく、神事だからである。これは神に相撲を奉納するためである。相撲の勝負は、ただ勝ち負けを競うのではなく、それを通して神に豊穣の祝福を願っているのである。

ヤコブが神の使いと格闘した(相撲をとった)ことは、よく「祈りの格闘」として語られる。「夜明けまで・・・・・・格闘した」とか「祝福してくださるまで」とあるので、「とことん祈る」「熱心に祈る」「あきらめずに祈る」「祝福されるまで祈る」という祈りの姿勢を表しているというのである。何としてでも自分を祝福してくださいといって、神を離さない、熱烈な祈りと信仰の格闘だったのである。そのヤコブの「神に対して熱心に求める」姿を、神は喜ばれ、彼を祝福したのである。

ルーツが分かると、その理由や意味が明確にされてくる。地域における相撲行事でも、「ヤコブのように神に祈る心」「熱心な祈り」などについて分かち合われ、参加する一人一人が、それを意識するなら、さらに意義深く、祝福を期待しながら、とても楽しい相撲行事になるのではないでしょうか。



コラム 「一人角力(ひとりずもう)」という神事

旧暦の5月5日、瀬戸内海の大三島にある大山祇(おおやまずみ)神社では、御田植祭(みたうえさい)が行なわれるが、そのとき境内の土俵で「一人角力(ひとりずもう)」という神事がある。角力はふつう二人で行なう闘技だが、それを一人で行なうのだ。いや、というより、相手は神様なのだという。見ていると、何とも滑稽な神事だ。目に見えない神様を相手に角力をとるから、一人角力なのである。これは、ヤコブと天使の角力を思い起こさせる。」(「神道の中のユダヤ文化」久保有政著)