えみちゃんを救う会のブログ

えみちゃんを救う会のブログ

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タイトルで察しがついてしまうでしょうか。

昨年、8月7日に
えみが
なくなりました。

応援をしてくださった方々、
本当にありがとうございました。



ずっと、応援してくれた人へ
お知らせをしなければと思い続け、
短い内容だとしても、もっと早くに
お伝えするべきだったのかもしれませんが、
どうしても、
えみの最後のがんばりも
知ってもらいたい気持ちがあり、
なかなか表現できずにおりました。

2月7日で半年となり、
なんとかブログを更新する気持ちを
整えることができました。

心配してくださった皆様、
ご報告が遅くなり申し訳ございません。


今回も、コメントをいただいても
お返事できないかもしれません。
えみに、
よくがんばったねという気持ちで
いいねをしてくださって構いませんので、
いいねな内容ではありませんが、
よろしくお願いします。






以下、えみの最後のがんばりを記しました。
適切な表現ではないかもしれません。
ご自身の判断で
お読みいただければと思います。



前回のブログでお伝えした通り、
お誕生日以降、
体調は非常に悪くなりました。

脱水や貧血がひどく、
輸血を繰り返しました。

以前も書きましたが、
“血管内に水分を留める力”
がとても弱くなっていて、
それは、えみの “生きる力” そのものが
弱くなっていることを意味していました。

脱水しているからと水分を入れても、
貧血だからと輸血をしても、
すぐに水分が血管外に出てしまい、
むくみがますますひどくなりました。


◆8月1日、呼吸の状態が悪く、
サチュレーションが
上がりにくくなりました。

前日に点滴で水分を入れた為に
肺にも水分がいってしまったかもしれない
とのことでした。

今後、輸血含め水分を入れれば入れるほど
呼吸は悪くなるだろうということで、
血液検査の結果から
輸血などの処置を行うか、
呼吸状態を優先して
輸血や水分補給をしないか、
単純には決められない
と言われました。

そして、以前決断した
残された時間を家族で過ごす
ということを、具体的に数値で決め、
実行するときがきている
とのことでした。

とても、ショックでした。

体調が悪くなっていることは
毎日、数値で理解はしていました。

ただ、
えみの様子は、
顔色も
表情も
穏やかに眠ったまま、
変化を実感することが難しく、
頭のどこかでは、
まだ大丈夫
と少しの期待がずっと居座っていたのです。


明日も貧血がひどくなってしまったら、
個室に移ります
と伝えました。



◆8月2日、貧血も脱水も
更に進んでしまっていました。

個室に移動することになり
看護師さんが準備を進めてくれました。

今までえみが部屋を移動するときは
誕生日やクリスマスなど
何かイベントのときで、
こんなにも悲しい移動は
初めてでした。

ICUに行くときとも違う、
黙々と荷物をまとめ、運ぶ、
その作業がなんとも言えず
悲しい悲しい時間でした。

いつも楽しくおしゃべりをする看護師さんと
目を合わせることも出来ず、
ただただ、準備を進めました。


えみと幸せな時間を過ごすための
移動なのに、なかなか受け入れられず、
夕方、お姉ちゃんと弟が病室にきて
やっと笑顔を作ることができました。


えみの部屋に1つ簡易ベッドを置き、
仮眠室を1部屋借りて、家族で
病院に寝泊まりする生活が始まりました。



◆8月3日、血液検査の結果は横ばい。
鼻血が出るようになってしまいました。
もともと吸引などの刺激で
鼻血は出やすくなっていました。

個室に移ったことを知った親戚、
叔父、叔母、いとこが、
代わる代わる
たくさん会いにきてくれました。

えみのベッドの足元でトランプをしたり、
弟を足元に寝かせてみたり、
えみの側で
できるだけ楽しく過ごしました。



◆8月4日、貧血も脱水も、緩やかに
悪くなっていました。
鼻血もまだ出ていました。

便がとても頻回で
オムツ替えの度に出ていました。
むくみがひどく、骨折の危険もあり、
オムツ替えは毎回看護師さんとしました。

また親戚が会いにきてくれ、
穏やかに過ごし、
8月2日に部屋を移動したときよりも、
具合が悪いことを
あまり感じられませんでした。

長い時間をえみと一緒に過ごせているのに
マッサージや絵本の読み聞かせなど、
医療的な処置ではない、
“いつもしていること”
に意外と時間をとれず、
もどかしくも感じました。
ボランティアさんがいるときは
弟を預けることにしました。



◆8月5日、
貧血の値は良くなり、
脱水は悪くなりました。

これは、貧血が良くなったのではなく、
脱水がひどすぎて血が濃くなり、
ヘモグロビンの値が高くなった
と説明されました。

脱水に関しては、いつも
ナトリウムの値で判断をしていました。
150を超えると高いと言われ、
脱水ということで
水分の点滴などしてきましたが、
今回初めて
180以上
という結果となり、
もうそれ以上の高い数値は出ない
とのことでした。

鼻血は止まりました。

呼吸の状態は少し悪くなり、
サチュレーションが上がりにくいときが
ありました。

見た目は変わらないのに
とても苦しいのだろうと
側にいても何もしてあげられず
つい悲しい気持ちになってしまうことが
しばしばありました。

えみに対する想いや考え方の違いで
夫婦で言い争ってしまうこともありました。

何のために、誰のために
家族で病院で過ごしているのか
えみに申し訳ない気持ちと
悲しい気持ちと
自分への苛立ちと
マイナスな感情がモヤモヤと幅をきかせ、
更に申し訳なくなる、、、
という悪循環でした。



◆8月6日、血液検査の結果は
また少し悪くなっていました。

ナトリウムは180以上のままなので
脱水がどのくらい悪くなっているのかは
判断できません。

お姉ちゃんと弟を
ボランティアさんに預け、
えみにできることをたくさんしました。

夕方は祖父、叔父、叔母、いとこが
会いにきてくれ、和やかに過ごせました。

弟が、少し長くお座りできるように
なりました。

弟に手がかかり
えみのことがあまりできない
と思ってしまう一方、
弟やお姉ちゃんのお陰で
悲しいばかりの時間ではなく
明るく楽しい時間も
たくさん作ることができました。



◆8月7日、血液検査の結果は
良くはなりません。

病棟の保育士さんからキーボードを借り、
お姉ちゃんに何曲か弾いてもらいました。

いつも動画でしか聴かせられなかったので、
生の演奏は初めてです。

その後、
院内のコインランドリーに行ったり、
パパが宅配便の受取や
猫ちゃんのお世話のために自宅へ行ったり、
少しバタバタとしていました。

14時を過ぎたころ、
えみのオムツ替えをする為に
看護師さんを呼びました。

便が出ていたので拭き取ると、
また出てきました。

ゆるい便なのか、
血なのか、
私には判断できない
液状のものが、
拭いても拭いても
少しずつ出てきてしまい、
オムツを替えることが
できないような状態でした。

看護師さんが何かを察したように、
先生に連絡する、と部屋を出ました。

入れ替わりでベテランの看護師さんがきて
血圧を測りました。

数値をメモし、
5分とあけず
また血圧を測りました。

数値をメモし、また測る、、、

様子が、おかしい、、、

パパはまだ戻っておらず、
連絡をするべきか、、、
どういう状況なのかわからないまま、
とりあえず電話をして、
すぐにこちらへ向かうよう伝えました。

間もなく先生も到着し、
血圧を確認しました。

血圧はずっと測り続けていました。

パパがいつ到着するのかを確認され、
向かっていると伝えました。

えみの負担を減らす
ということで、
持続で入れられていた栄養が
止められました。

壁に寄せられていたベッドを斜めに動かし、
呼吸器やワゴンを少し横へずらし、
ベッドサイドに椅子を置いて
私が側にいられるような配置にされました。

特に何か説明されることは
ありませんでした。

私も何も聞きませんでした。

顔色も
表情も
昨日までと何も変わらないのに、
えみの身体の中で
何かが
変わってしまったのでした。

手を握ったり
お顔を撫でたり
名前を呼んだり
話しかけたり

鼻血なのか、
栄養が逆流しているのか、
鼻から垂れてくるものを
拭き取りながら、
側で見守ることしか
できませんでした。

血圧は定期的に機械で測るよう
カフがセットされました。

16時前くらいでしょうか
パパが到着し、隣に座りました。

ナースステーションでモニターを
確認できるようにして、
先生や看護師さんは部屋を出て、
家族だけになりました。

手を握ったり
お顔を撫でたり
名前を呼んだり
話しかけたり

同じことしかできませんでした。



そして、このタイミングで
私の兄弟から電話が。

ガンで入院していた母が、
酸素マスクで酸素を最大限使っている
状態だと病院から連絡があり、
病院へ向かっているが
私たちも向かえるかという確認でした。

こちらの状況を伝え
電話を切りました。

まさか、、、。

母は肺がんを患い、
1年前から闘病しておりました。

母が自分の治療に集中できるよう、
えみの体調が悪くなったことは
伝えないようにしていました。

母の入院も長く続いていて、
私が母の面会に行けなくなった8月2日以降、
母の様子は毎日私の兄弟から
教えてもらっていました。

昨日はいつもより元気で、
冗談を言ったり
笑顔を見せてくれたりもしたと
聞いていました。

それなのに。

まさか。



えみの様子は、
しばらく変わらないように見えました。

サチュレーションは
70台で留まっていました。

泣いていた弟に授乳をしました。

その短い間に、
サチュレーションがぐっと下がりました。

弟をパパに渡し、
ミルクをあげてもらいました。



えみに伝えたいことが
たくさん溢れてきました。



最初に思うことは
ごめんね
でした。

ごめんねが率先して出てきたことにも
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

ここでケンカなんかして
ごめんね。
もっともっと
ずっと一緒にいたかった。
毎日短い時間しか
いられなくて
ごめんね。
何もしてあげられなくて
ごめんね。
ごめんねばっかりで
ごめんね。



次は
ありがとう
でした。

生まれてきてくれて
ありがとう。
パパとママのところにきてくれて
ありがとう。
いつもおりこうさんで
ありがとう。
モニモニさせてくれて
ありがとう。
絵本を一緒に読んでくれて
ありがとう。
えみのお陰で
いっぱい絵本を読めたよ。
えみのお陰で
たくさんがんばれたよ。
えみのお陰で
とっても幸せだったよ。



そして一番伝えたかったこと

えみが病気でも
全然大変なんかじゃなかったよ。
もっともっと
一緒にいたいよ。
もっともっと
病院に来たい。
もっともっと
えみのお世話をしたいんだよ。



何度も何度も
同じことを伝えました。



モニターが
心拍数を拾えなくなりました。



えみが
しんでしまったのだと、


泣いて
泣いて
泣きました。



しばらくして
看護師さんを呼び、
えみに繋がっているものを
全て外して
抱っこをしたいと伝えました。



心拍数は拾えていなくても
サチュレーションが拾えている間は
心臓は動いているので、
呼吸器だけは外せないと言われました。


まだ、

まだ、

生きていてくれました。


呼吸器だけは繋がったまま、
抱っこをしました。

とても重い、、、。

骨折が怖くて、
むくみがひくまでは我慢、と、
ずっと抱っこできずにいたので、
とても久しぶりでした。

こんなに重くむくんで、、、
辛かったね、
苦しかったね、
と、
またごめんねという気持ちで
いっぱいになってしまいました。

お顔にすりすり、
おててをにぎにぎ、
またたくさん
伝えたいことを伝えました。

最後にこんなにたくさん時間をくれて
ありがとう。

こんなにがんばってくれて
ありがとう。

こんなに命を大切に使ってくれて
ありがとう。

えみ、かっこいいよ。
こんなに最後まで、
最後の最後まで、
がんばって生きてくれて、
本当にかっこいい。



話している途中、突然
えみの顔色が変わりました。
まだらに、
血の気がひいたような、
グレーみたいな変な色になりました。

モニターを外してしまったので
サチュレーションもわかりませんでしたが、
何か変化があったことはわかりました。

それでも、わからないふりをして
えみに話し続けました。



その後、間もなく、
顔色のまだらがなくなり、
皮膚が全体的に
白くきれいになりました。

目元や首にあった
痣のようなものも少し薄くなり、
きれいな白い肌になりました。

さっきとは別の変化があったのだなと
すぐにわかりました。

それでも、わからないふりをして
えみに話し続けました。



どのくらい時間が経ったのでしょうか。

看護師さんを呼びました。

先生も来ました。

先生が聴診器で心拍を確認しました。



午後8時42分、
先生が、死亡を確認しました。



ドラマで見るような光景では
ありませんでした。

先生も泣いていました。



お風呂に入れる準備をするということで
家族は部屋を出ました。



その後、準備が整い
看護師さんと一緒に、
私たちもえみをお風呂に入れました。

家族全員で過ごすことができて、
不思議と幸せを感じられる時間でした。



その日の夜、
家族で川の字になって寝ました。


呼吸器のいらなくなったえみ

呼吸器の音がしない部屋

とても不思議な感覚でした。


少しお化粧をして、
とても穏やかに
優しいお顔で眠っていて、
呼吸でお腹が上下に動くのではないかと
つい確認してしまうくらい、
いつも通りの可愛い寝姿でした。



夜中に私の姉と電話をしました。

母は
1時過ぎに亡くなったそうです。



2人は会っていなかったのに、
いつの間に約束をしていたのでしょうか。

待ち合わせをしていたのか、
えみが誘ってしまったのか、
母がえみの為について行ってしまったのか、
誰にもわかりませんが、
2人が一緒にいてくれて良かったと
誰もが思う出来事でした。



5歳。

そのうちの4年間を
病院で過ごしました。

とてもがんばりました。

お姉ちゃんが大好きな、
可愛い妹でした。

弟に優しい、
すてきなお姉さんでした。

咲(えみ)という名前の通り、
たくさん笑ってくれる
可愛い可愛い娘でした。

8月7日、花(はな)の日。
最後にお花を咲かせてくれたのでした。

本当に、ありがとう。

ずっと、ずっと、大好きだよ。