昨日は自身の誕生日でした。

たくさんのお祝いメッセージを頂きました。

改めて、ありがとうございます照れ

 

 

相談時、私に酷いことを言われたと感じている方が実際にどれくらいいらっしゃるのかは分からないですけれど、、、何度か言われました。

 

う〜んと、、、私は、、、病気などで相談に来た人をですね、落として、踏みつけて、バカにして、侮辱してやろう、なんてつもりは一切ございません。ともかく、出所は「愛」からでございます。はい。

 

私の願いは、自分の足で健康の道を歩んで貰いたい、それだけです。


その人が「健康に向かいたい」と思っているのかどうかなのですが、まあ、思っているから相談に来るのでしょう。相談に来たからには「健康になりたい」と思っていますし、現状を打破して「変わりたい」とおっしゃったら、こちらも頑張ります。お金を貰っていたら、余計に頑張ります。

 

そんな時、辛らつな言葉を使わざるを得ないことがございまして、「酷い言葉」と感じる表現を敢えて使いました。その方が病気の世界観の中でグルグル回っていることが見えてきた時や、船の錨を上げずに出航しようとする人に。

 

優しい言葉をかけても病気の中をグルグル回り続け、錨を上げずに航行して、結局は不安に駆られて人生を見失っている場合には、それなりに強いエネルギーが必要だと感じているからです。

 

グルグル回る方の共通点とでも言いましょうか、、、糖尿病の方にもよく見られる共通点でもあります。アドバイスをしたり、問題点を指摘した時に使われる言葉。。。

 

 

 

 

でも、

 

 

この「でも、」が、何度も出てきます。この言葉が口から出てくるということは、私の言葉が入っていかない、という、現実を突きつけられるわけです。そうなると、天を仰ぎ、どうしたら言葉がこの人に入るかを考え悩みます。

 

例)「でも、」を付けてみよう

 

東京から名古屋へ行くには新幹線だよね。

そうだね、でも、バスの方が安いよ。

*この場合の「でも、」は提案ですが、相談時には否定としてよく使われます。もしくは、自己主張というか、自己肯定を主調する場合です。

 

健康的な食生活で玄米はいいよね。

そうですね、栄養素的にも素晴らしいですね。でも、嫌いです。

 

糖尿病なら運動を増やさないと。

そうですよね。でも、膝が痛くて歩けません。

 

抗がん剤の使い方をこうした方がいいですよ。

危険なのは承知しています。でも、主治医が言うので。

 

主治医にここを質問しないと。

そうですよね。でも、言えないです。

 

治癒力を上げるにはこうしないと。

はい、やってます。でも、結果が出ないです。

 

結果が出ないということはやり方に問題があるのでは?

でも、私はちゃんとやっているんです。

 

ココのレストランの料理は美味しいでしょう?

そうです、とても美味しいです。でも、

 

この服、可愛いでしょう!

似合っているよ。でも、

 

受け取っては目の前で捨てられる「でも、」の使い方です。全てが否定されていくような感覚になっていくのです。アドバイスを聞くきはなくて、自分の正しさを主調しているように感じます。「だって、」も同じ感じです。

 

この「でも、だって、」が続く限り、こちらのアドバイス、提案は入らない。この状況をどう打破するのか。辛らつな言葉を使う時は「これを言葉にするのは嫌だが仕方ない」と、心を痛めながらドーンとぶつけています。

 

変わりたいんでしょう? 変わって欲しいんだよ!

 

それでも「でも、」が出るようならば、更に強いエネルギーの言葉をドカーンとぶつけていきます。最終的には根負けするのですけどね。最後に「本当にアドバイスを聞く気はありますか?」と問うと、皆口を揃えて「もちろんです! アドバイスが欲しいです!」とおっしゃいます。矛盾を感じます。

 

しかし、、、

 

気づきました。

なんで分からないのだろう、という傲慢さ。

相手を変えてやる、というエゴ。

聞く気がなくても聞かせてやる!的な感じ。

結局は上から目線だったということ。

結果は、ただ単に相手を不愉快にさせていたこと。

良かれと思ってやったことが真逆になった。

小さな親切、大きなお世話だった。

まだまだ、ですね。

 

だから、もう、これ、しないです。

もしかすると、うっかり、しちゃうかもしれないけど、しない努力をします。

 

いつもありがとうございます。