皆様ご心配おかけしまして申し訳ありませんでした。
5月15日と16日の写真をアップします。
15日は高村光太郎が晩年を過ごした山荘前での講演。
16日は花巻文化会館での光太郎生誕130年の記念講演を依頼されました。
光太郎は父が戦前から心酔し「自分が今日まで生きて来られたのは光太郎のおかげ」と
いうくらいなのです。
13年前父に山荘前で約束しました。絶対に光太郎の晩年のことを書くと。
光太郎が人々に誤解されたままの部分が多く、なんとか自分なりに真実の部分が書けないものか?
との思いから「月にぬれた手」を書きました。
芸術家としての智恵子の苦悩も書きたかったのです。
光太郎は宮澤賢治を、草野心平とともに世に出した人でもあります。
光太郎が花巻に疎開したのも、宮澤賢治の父と弟のススメによるものでした。
花巻が空襲でやられ、宮澤家も焼失
マイナス20度にもなる花巻の、暖房も電気もない山荘で
光太郎は何を思いたった一人で暮らしていたのか?
毎日智恵子の分まで食事を作り、自炊していました。
宮澤賢治の弟の清六さんもしょっちゅう山荘を訪ねていました。
私のうしろで踊っているのが高橋愛子さんで
光太郎の詩「山の少女」のモデルです。
毎年、光太郎が太田村に来た15日に村の方たちが集い
踊りの発表をしたり、子供たちが光太郎の詩を朗読したりするのです。
光太郎も村の方たちを愛していました。
しかし、宮澤賢治に関して、花巻の方たちがもっともっと評価すべきだと
怒っていたそうです。
宮澤賢治の弟の清六さんの娘さんの潤子さんです。
紫紺染めの素敵なおめしものです。
あの賢治の童話の山男が教えてくれた染物です。