31.占領時代(3):公職追放 (2006年7月10日記載)
 
 戦後の日本に大きな影響を与えたGHQの施策として、占領初期の「軍国主義者を主たる対象とした公職追放」と、その後、東西冷戦の進展に伴う「逆コース」の時期に行われた「共産主義者を主たる対象としたレッド・パージ」とがある。今回は、この問題を考えてみたい。

Ⅰ.公職追放 

 「公 職追放」とは、ポツダム宣言第6項に基づき、軍国主義・超国家主義者勢力の永久除去のためにとられた一連の措置のことを言う。昭和20年(1945 年)10月の特高パージ・教育パージに始まり、翌年1月のGHQからの覚書によって職業軍人・大政翼賛会等の有力者や経済界の実力者等に範囲が拡大して いった。

 (1)人権指令  昭和20年10月4日、GHQは、東久邇内閣に対していわゆる「人権指令」を発し、その中で、特高警察等を廃止し、内務大臣・警視総監・特高警察課員等を 罷免すること、そして同時に、治安維持法等を廃止し、それらの法令違反で拘留・投獄されている者を10月10日までに釈放することを要求した。、
      。
 (2)教師の追放と教壇復帰 昭和20年10月30日、GHQは、教職不適格者の追放と、戦時下に弾圧され教壇を追われ た教師の復職についての指令を出した。これにより、軍国主義教育に協力した教職者が学校から追放された。それと同時に、大内兵衛・矢内原忠雄等、戦時中、 軍部の圧力により教壇を追われていた教授が母校に復職した。





 (3)GHQの公職追放令: GHQはGS(民生局)を中心に密かに覚書を作成し、昭和21年(1946年)1月4日、二つの指令を幣原内閣に発した。「国家主義的・軍国主義的な諸団体の廃止」と以下のA~G項の7項目に該当する「公職に適せざる者の追放」である。
   . 戦争犯罪人。
   . 陸海軍の職業軍人。
   . 超国家主義団体等の有力分子。
   . 大政翼賛会等の政治団体の有力指導者。
   . 海外の金融機関や開発組織の役員。
   . 満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官。
   . その他の軍国主義者・超国家主義者。
 この追放令をうけた政府は狼狽した。閣僚の中に該当者がいたからである。幣原内閣は、該当閣僚を入れ替える内閣改造でこの危機を乗り切った。
 この追放令による該当者数は、当初は、右表に示す1,067名であった。
 (4)第一次公職追法令
   ① GHQの追放令の狙いは、該当者の総選挙出馬阻止であった。政府は、2月9日、これらのGHQ指令を法令化して二 つの勅令を発し、第一次公職追放が開始された。D項該当者として、翼賛選挙推薦議員全員を追放令該当者として指名した。この結果、進歩党は274名中 260名が、自由党は43名中30名が、協同党は23名中21名が、社会党も17名中11名が、追放該当者となり、4月10日の総選挙における当選者中の 8割強が婦人を含む新人によって占められることとなった。この選挙結果はある意味で、「無血革命」ともいうべき衝撃であった。
    総選挙での当選者の再審査を行うことも含め、6月29日の勅令によって、「公職適否審査委員会」(委員長美濃部達吉)が設置され、追放の審査を行った。
 (5)G項の問題点 GHQ追放令のG項の「その他」とは何を指すのかが曖昧であった。この曖昧さがGS側からすれば便利で強力な武器となった。その問題点を以下の三例で示す。
    鳩山一郎のパージ: 審査委員会では鳩山を「非該当」としたが、GS側は、委員会の頭越しに日本政府に対して、鳩山のパージをメモランダム(覚書)によって「指示した。このため、鳩山は、後事を吉田茂に託さざるをえなくなった。
    石橋湛山の追放: 彼は、当時、大蔵大臣として終戦処理費の減額をGHQに要求し、経済政策の見直しを求めた。こ れは、GHQの占領政策に真っ向から反対するものであった。GHQは、占領政策に真っ向から反対する石橋湛山を追放するために、彼が戦中に「東洋経済」誌 上で軍国主義を主張したと言う理由をつけて、当時の吉田首相にパージを指示したのである。
    Y項パージ: 昭和22年(1946年)4月、戦後二回目の総選挙直前に「政敵」である芦田均周辺の有力者が次々 と追放になった。これは、吉田首相が、インフォーマルな形で指示しなければ不可能であると思われた。このため、この追放を世間では、「Y(吉田首相の頭文 字のY)項パージ」と呼んだ。
 (6)第二次公職追放令 昭和22年(1947年)1月4日、「第二次公職追放令」が公布施行された。第1次パージが中央の政界、官界、軍部を中心としたのに対し、第2次は、中央の経済界や言論界、そして地方の指導層を対象としたものであった。この追放令をうけて、中央・地方に、公職適否審査委員会が設置され、追放旋風がますます吹き荒れることとなった。この間の昭和21年5月には教職パージ、12月には労働パージも実施されており、これをもって公職追放は完結した。公職追放の実施状況は、左の表の通りである。
 (7)パージ政策の変更 
   
昭和21年(1946年)3月5日、元英首相のチャーチルが、有名な「鉄のカーテン」演説を行い、東西冷戦が始まった。この冷戦の進展に伴い、米政府内部では対日占領政策の見直しが始まった。従来の「非軍事化・民主化」政策は、アジアの共産主義化の波によって非現実的となり、むしろ日本を反共防波堤とし、アジアの有力な同盟国にするほうが良いとの認識であった。
   こうして、昭和23年(1948年)5月、日本の審査委員会が廃止された。この時点までに公職を追われた日本人は20万人を超え、その家族を含めれば、100万人以上の日本人が影響を受けたことになる。
   同年10月、米政府は、対日占領政策の目標を「経済的自立」とする新方針を公式に承認した。この一環として、パージも、「終結」か ら「解除」へ向かう、と期待された。しかし、マッカーサーは、パージの解除に対して、自分が命じてきた占領方針に反する、として猛烈に反対した。このた め、パージの解除は、昭和25年(1950年)6月25日の朝鮮戦争の勃発まで、見送られた。    


Ⅱ.レッド・パージ 

 冷戦の進展、日本の労働運動の高まり、日本経済のインフレの昂進、といった事態は、アメリカの占領政策に大きな影響を与えた。1949年7月のGHQ教育顧問イールズの「反共演説」を契機として、日本共産党に対する「公職追放(レッド・パージ)」が行われるようになった。こうして、今までの民主改革路線と逆行するかのような占領政策の変更が行われ、一般に「逆コース」と言われる。
 (1) 朝鮮戦争勃発の直前の6月6日、マッカーサーは、共産党共産党中央委員24人を公職追放した。徳田球一ら主流派は地下に潜伏し、日本共産党は分裂した。GHQは、その後、7月18日に共産党の機関紙「アカハタ」の無期限発行停止を指令したが、この指令は、あらゆる報道機関における共産主義者の排除の論拠とされた。
 (2) 昭和25年(1950年)7月24日、GHQは、新聞社に共産党員とその同調者を追放するよう指示し、ここに、「レッド・パージ」が始まった。これをうけて、新聞・放送関係では、8月5日までの間に、NHK119名、朝日新聞104名を含め、総計で704名が追放された。
 (3) 新聞・放送のパージについで、8月には電産、9月には映画・日通、10月から11月にかけて全産業に波及し、その数は11,000名にのぼった。この間、政府は9月1日の閣議において、公務員のパージを決定し、国鉄467名、電通省217名以下、全部で1,200名近くが解雇された。
 (4) 唯一つだけレッド・パージが不成功に終った分野があった。それは、大学で、学生運動の成果であった。政府は、9月 9日、「教職員の除去、就職禁止等に関する政令」にもとづき、レッド・パージをすることを決定した。しかし、これより先5月、全学連はイールズ闘争に勝 ち、意気があがっていた。(注:GHQ/CIE顧問のイールズは、昭和24年(1949年)7月以降、各大学で「共産主義教授の追放」を説いてまわった。 しかし、各大学の自治会はイールズの講演に反対し、昭和25年5月には、東北大学でイールズの講演会を中止させるのに成功したのである)。
 政府の追放令に対し、学生達は、試験ボイコット等の手段で、強硬に反対した。そして、10月17日には全国ゼネストが行われ、全学連の指揮するデモ隊と 警官隊が衝突し、143人の大量の逮捕者を出す騒ぎとなった。こうした混乱を収拾するために、文部省は、ついに、大学教員のレッド・パージを断念したので ある。

Ⅲ.追放解除

 レッド・パージとまったく対照的なのが追放の解除であった。公職追放は、日本の政・財・官界・旧軍人等を震撼させたが、逆コースの波に乗り、その見直しが行われた。

 (1) 昭和23年5月に廃止された「公職資格訴追審査委員会」は、翌年2月に再設置され、「指定特免」の訴願を受理した。公職追放者約206,000人のうち、32,089人が訴願書類を提出し、昭和25年(1950年)8月末まで、その審査が行われた。審査の結果は、右の表の通りであり、10,090人の解除が決定した。解除された主なメンバーを以下に示す。
  A. 政界・官界・財界: 平野力三、鶴見祐輔、山際正道、松前重義、古井義美、前田多門、藤山愛一郎、伊藤忠兵衛ら
  B. 新聞・出版界: 石井光次郎、美土路昌一、高田元三郎、松本重治、小汀利得ら
  C. その他: 安井郁、市川房江ら
 なお、表の最下段にある、GHQによる「覚書追放者」の鳩山一郎、石橋湛山、河野一郎、河上丈太郎、河野密らは、「訴願委員会の審査の権限外である」として、8月15日に解除を凍結された。
 (2) 昭和25年10月30日、旧軍人の一部の追放を解除した。昭和20年の7月、8月に任官した3,250名で、第一次追放解除とは別枠で処理された意図的な解除であった。というのは、翌年、彼らの中から警察予備隊の幹部を採用したからである。
 8月10日に発足した警察予備隊には、中堅幹部が不足していた。そこで、こうして追放解除した旧軍人の中から積極的に中堅幹部を採用し、警察予備隊の組織強化を図ったのである。
 (3) 昭和26年(1951年)6月16日、GHQは、覚書追放者を一般の追放者と同じ扱いにする、と発表した。こうして、全追放者が、6月18日に新しく設置された公職資格審査委員会により、審査されることとなったのである。
 (4) 昭和26年8月6日、延べ13,904名が第2次解除者として発表された。この中の主要メンバーは以下の通りである。
  A. 政治家: 鳩山一郎、松野鶴平、河上丈太郎、河野密ら
  B. 財界人: 藤原銀次郎、小林一三、五島慶太ら
  C. 言論界: 緒方竹虎、正力松太郎、高石真五郎ら。
 (5) その後、昭和26年9月4日の講和条約調印の後、追放の解除は急ピッチとなった。そして、昭和27年(1952年)4月28日の講和条約発効にともなう追放廃止令により、残されていた5,700名全員が自動的に追放から解除されることとなった。この最後に解除されたメンバーの中に、岸信介ら太平洋戦争開戦時の閣僚5名のほか服役中の戦犯が含まれていた。

Ⅳ.まとめ

 日本の指導層を混乱の極に追い込んだ「公職追放」には、多くの問題点が含まれていた。それは、前述した 「G項」のごとき基準の曖昧さと、審査は日本側が行うが、実施はGHQ(とくにGS)に握られているという二重構造とにあった。表向きは、日本側が主体的 にパージを審査し実施しているようにみせながら、実際にはGS側の意向で審査結果は曲げられた。しかも、パージは司法的に行われず、行政的に実施されたた めに、審査側にかなりの裁量の余地が残されたのである。
 このため、日本人の中には、保身とか政敵を追い落とすためにパージを利用したり、GHQ内でも、パージを巧妙に用いて日本の政界に影響力を残そうとする 動きもあった。結局、双方のそのような悪質な態度がパージ自体を堕落させ、国民から不評を買う結果となってしまったのである。
 今回まとめた公職追放やレッドパージが日本社会に与えた影響の大きさは今後、もっともっと分析・研究される必要があるであろう。

 参考文献: 1.「昭和の歴史-8 占領と民主主義」 (神田文人、小学館)
         2.「実録 日本占領」 (学習研究社)
         3.「昭和史-戦後編」 (半藤一利、平凡社)
         4.「写説 占領下の日本」 (近現代史編纂会編、ビジネス社)
         5.「日本占領(1)(2)(3)」 (児島襄、文春文庫

         6.「吉田茂とその時代」 (岡崎久彦、PHP文庫)