ここで新たな問題が生まれてくる。
僕は精神障がい者ケアホームで週に4回3回ほど宿直で入っていて、かなり長い時間利用者たちと時間をともにする。
たったの一日で辞める若い人がけっこういてるけど、僕には不思議だ。
僕にとってここは、ものすごく望ましいところだ、みんなが純粋で、弱さを隠すことがなく、正直な反応で生きている人しかいない。
あせらされる質問に対して、嘘でかえしてくることは確かにたくさんある。
捏造の物語を語ることも確かにたくさんある。
けども、悪意の嘘にはまだ出会ったことがない、むしろそれをするのは職員の方だ。
僕は捏造の物語を、彼の想像力による作品として楽しむ。
果てしない空虚を見つめ続け、微動だにしない人がいる、彼女はその目で何を見ているのか。
停止した時間の中で、彼女は人生の欲動や意義をどのような方法論で満たしているんだろう。
その中で、僕は、自由を感じる。
世間と言われるものが、いかにパラノイック(妄執狂)な教条主義で、教科書と台本を某界に人はしゃべるか。
定式化されたブームの中で、個性を飾りつけ、本質にふたをするか。
確かに彼らの大多数が、神経症と薬の副作用によってまっすぐ通常のスピードで歩き、しゃべることが難しい、独特の抑揚と、臭いに、人は辟易するだろう。
医学的に彼らの脳みそがどのような異常があるのか僕は知らない。
けども、薬剤投与でしか正義をまっとうすることができないとパラノイックに信仰する科学が、なぜ彼らに対して、一歩偉ぶるのか。
いや、ついつい怒ってしまった
もしそこに問題があったとすれば
怒りを感じることはエネルギーの源になるけれど、怒りの表現にはまったく問題の改善には結びつかない。
最近、そう考えるようになってきたなぁ
最初の一文である、新たな問題、それは。
ホームで、僕は最近よく、突然歌い出す、歌は主に二種類で
「アンパンマンマーチ」と
「さよなら人類」だ。
そうこうしていると、だんだん利用者も歌を歌うようになってきた。
今朝、ホームは、まさに混沌とした状況になった。
職員の人は忙しく走り回り、僕は掃除機を忙しくかけてまわり、おばあちゃんは同じことを聴きまくり、そのおばあちゃに対して「同じことばっかりいわんといてぇぇ」って何回も言う利用者、そして、二人の男性が、一人はリビングで、一人は玄関で、ひたすら歌を歌っている。
テレビと、利用者の歌う演歌、おばあちゃんの質問、おばあちゃんに対する利用者の反応、掃除機の音、玄関では「さよなら人類」まさにパラレルワールド。
渾然一体と不協和音が鳴り響く
あらゆる音色が交差する
人間交差点
その中で一人の女性が停止した状態で虚空の一点を見つめ続ける、、
僕は今朝、散歩している途中、なぜか歩道のコケがすべてほじくり返され、放置されているのを目撃し、そんな状況を思い出した。
そんな日記
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