続きを。

どちらかというと、こちらの内容の方が皆さんにはリアリティがあるのかな?!

 

この箕輪さんのTweet「本当にそうですよね~。」と。

 

私も少し前に手放した感覚。

ここ数年はこの価値観に近い感覚に基づいて、仕事をしてきた様に感じます。

何とな~くですが、現在、既存の資本主義やアパレルのシステムに行き詰まりを感じていた私。

「結果として、商売が縮小した」部分もありますが、

「商売を縮小させて良かった」と感じている自分もいます。

 

ある程度、

早々に「比較、競争する事」、「今迄、既存のアパレルのシステム」、「アパレルに固執する事」、

はたまた「仕事=お金稼ぎ」からも距離を置いている訳で。

 

「お金、利益の為だけに生産、販売をする」

「そういった労働の仕方=人生」

そういうところから、距離を取ったと言っても良いのですね。

 

理由は簡単で、

「そういった方向に世の中が動いているという確信があるから」。

それに尽きます。

 

勿論、今は過渡期ですし、今後もお金(の様なもの)は無くなったりはすぐにはしないとは思います。

しかしながら、「確実に意味は変わる」とは思っています。

 

少なくとも、「沢山稼ぐ=凄い」という価値観は薄まるでしょうし、

「資産形成、貯蓄性」という側面は薄まる、無くなると思います。

 

より循環、持続可能なお金、システムに生まれ変わるでしょうね。

今、流通しているお金も現在の価値を維持できる事は、おそらくないでしょう。

紙切れの可能性もゼロではないという事。

 

 

米ドルの終焉はここ0~3年内で確実に起きるでしょう。

実際に「金本位制」に移行するかは分かりませんが、

「何かを裏付けにするデジタルマネー(世界通貨)」に

スライドさせる事は間違いないのではないかと感じています。

 

今は何の裏付けもなく、「刷り放題」ですからね。

しかしながら、それらが循環や消費に向かう訳でもありません。

 

その解消の為、既存の金融システムをリセットし、

「何かの裏付けのあるデジタルマネー」という事なのだと思います。

 

デジタルにより、総量規制の管理がし易くなる事は勿論ですし、

「金利」という概念も薄まるでしょう。

(そもそも銀行の必要性がなくなるのでね…。)

 

また、「循環」、「持続可能な資本主義システム」の実現性を高める為、

やはり「デジタルマネーに使用期限を設ける方向に向かっていそう」です。

 

リセットにより、経済規模自体は縮小するとは思いますが、循環でカバーという事なのでしょう。

(日本はこんな小国で未だにGDP世界3位。

だから、尚更に「これからは日本の時代」と言われる側面もあるのだと思います。

ましてや、ずっと「デフレ」だった訳で。

ちなみに「デフレ的な価値観、感覚」は少し横に置いて置いた方が良いと思います。

勿論、これからバブルが起きる側面もありますし、

「ハイ」は極限まで高まりますし、「ロー」も極限まで低まるとも思うので。

商売的なニーズも同じだと思いますよ。)

 

今迄の教育の擦りこみや将来の心配や不安の為の貯蓄性、資産形成という概念も

これらにより無くなりそうです。

では、これらの不安要素の払拭の為の改善策として登場するのが、

「ベーシックインカム」

となるでしょうか。

 

また、循環が高まりますので、税金も今ほど支払う必要性も薄まるでしょう。

(AI、ロボット化も進み、今ほど議員や公務員の数も大幅に少なくなるでしょうしね。

これらに付随した癒着や利権構造も崩壊するでしょうから、尚更でしょうか。)

 

結局、

「お金を持っていても使わない、使えない、使い切れない人」は期限切れを迎える前に必要な人や応援したい人に繋げたり、

期限切れを迎え、そうが故にその分が必要な方の手元に向かい易くなるでしょうしね。

 

「その時々にやりたい事がある人の手元に今よりもはるかにお金が届きやすくなる」。

という方向に進むのではないでしょうか。

 

こういった世の中に進むという事は

「お金の為に仕事をする」

という概念は当然薄まるでしょうね。

 

ポイントの様にお金を稼ぐのが好きな人はそれはそれで没頭するでしょうし、

どこにも所属せず、ベーシックインカムと必要な分だけ短期間で稼ぎ、それを期限切れまで使い切り、

また稼ぐという働き方の方も出てくるでしょう。

はたまた、「体験」が欲しい方は「お金を払うので、この仕事をさせて下さい。」も有り得るでしょうし。

好きな事を継続的に仕事とする人も勿論いるでしょうしね。

当然の事ながら、何もせずにベーシックインカムのみでの~んびり生きる人も出てくるでしょうか。

 

いずれにせよ、

様々な過ごし方が出てくる事がイメージできますね。

 

~~~

 

「記憶の集積」は加齢により増える。

つまりは、「過去からの延長」を尊重し、生きれば生きる程に、

足枷が増えてゆく事となり、モデルケースにはまってゆき、どんどん選択肢を狭め、感性も鈍ってゆく

という事にも繋がりかねない訳ですね。

 

まあ、「時間」も概念ですし、

未来から今を時間は通り過ぎてゆくだけであり、

「今にしか居れない」訳なので。

「未来」にも「過去」にも「今居る事は出来ない」ですからね。

「今、この瞬間」しか存在しておらず、そこにエネルギーを集中させ、

「在る事を堪能する」だけで充分という事。

 

「思考し、行動する必要は特にない」とも言えます。

 

 

例えば、こういった事一つとっても「目の前で起きてもいない事」に不安、恐怖、怒り…

これらを感じる人もいる訳ですね。

(そもそも、メディアはそういう役割なんでしょうけどね。先述の感情の波動、波の伝染とでも言いましょうか。

これにより、大きな存在や物質(特にお金)に依存させる為。)

 

ですから、今の様なカオスな状態では、感覚の2極的やら3極的な方向に進んでいるとも思います。

(メディアやそういった煽りを受けた方々が近くに沢山いる方は煽りを受けやすいですしね。

とはいえ、好きでそういう方々と一緒にも居る訳ですから、OKなんですけど。)

 

欧米や諸外国から見れば日本のインフレなんてカワイイものです 笑。

ましてや、再三綴っていますが、「30年デフレだった国のインフレ」はむしろ喜ばしい事なのでは?!

「今迄が安価すぎた」だけですからね 笑。

 

さらに、こういった電力UPの煽りをうけるのは敷地の大きい商売をしているところです。

 

そういった比較的大きい企業が営業時間や労働時間の短縮を行う事は

今後向かうであろう社会の流れからすると普通の気がします。

さらには、過剰生産品の生産抑制にもなる訳ですから、良い事ではないでしょうか?

 

また別に、インフレにより企業収益が増え、時短としても収入のカバーが可能で、

問題が無い場合もあり得ますからね。

 

労働時間減による収入減が気になるのであれば、

これを機に独立も良いと思いますし、やってみたかった仕事を合間にやってみるのも良いでしょうし。

自分が変われば大したことではなかったりするケースもありますよね。

 

と綴っても、不安、恐怖、怒りに煽られる人は近しい人達同士で集まったりもするので、

自覚するまでは変わらないと思うのですが 笑。

(周波数、波動的にもね。)

 

「やって来るであろう未来」から、「今起きている事」を観測していれば、

「起きる事が起きている」

となると思うのでね。

 

メディアや煽られている方に煽られない様にもしたいものですね。

「見えている世界が違う」。

「見たい世界が違う」。

それは当たり前なので、それでOKですよね。

それが特にコロナ禍より今、はたまたこれから更に顕著になると言えるでしょうか。

 

 

結局は「ニュートラル」、「中庸」、「在るがままを受容する事」がすべてという事。

 

「思考」、「ジャッジ」、「解釈」はいらないという事です。

 

何よりも

「自分の内側が外側に反映されているだけ」

という事。

 

つまりは

「自分の内側が変われば、外側に起こるすべてを受容できるように勝手になる」

とも言えるでしょうか。

 

そこに「肯定的」、「否定的」な「解釈」や「思考」を掲げた瞬間、

どちらにせよ「二元」が生まれますから。

 

そして、宇宙の仕組みとして、

「放ったものは自分に返ってくる」

訳ですからね 笑。

 

だから、

初めに綴った「ニュートラル」、「中庸」、「在るがまま、我がまま」という事です。

 

「思考」は「過去からの演算(損得)機能」。

「ジャッジ」や「解釈」を生みます。

ましてや、勝手にそこに感情も紐づけます。

(実際は全部別々に「在る事」を堪能したら良い訳です。)

 

これらから距離を置く、「何か違ったかも」という事を思い出すと、

問題という概念を作り出していたのは「自分(の解釈)」という事に気付いてきます。

そうすると、

「問題は本当は無かったかもしれない」、

「仮にあったとしても、勝手に解決される、問題自体が無くなる」

という事にも気づき、

「宇宙全体が勝手に解決してくれる」、

はたまた「未来の自分や周囲が勝手に解決してくれる」

と「問題への執着」から離れる事に繋がります。

(勿論、すぐに解決出来そうな事はするとは思いますが 笑。)

 

「宇宙(はたまた全体、すべて)への信頼」=「自分の内側への信頼」

とも言える、繋がる訳ですね。

 

これが「受容」であり、「愛」とも言い換える事ができると思います。

 

まあ、「何言ってんの?!」という方もいらっしゃると思うのですが 笑、

各々の分離した「私(自我)」にも各々のタイミングというものがあるとは思うので、

思い出す、思い出さないにも優劣もないので、すべてOKです。

(何度も言いますが、分離は錯覚ですし、魂は宇宙に一つしかないので、

「自分が自分で全てを自由意思により、決めている」という事も人間の脳による錯覚なんですけどね 笑。

「自分」なんてものはいないに行き着きますが、

人間の脳の構造上「自我が消える事はない」。

ただ、「自我」があるから、「個性」があるに繋がるので。)

 

 

 

すべては宇宙全体で1つ。

そう考えるとすべての陰陽が統合すると中庸に至る(というか、常に中庸なんだろうなと。)。

 

すべて完璧であり、それを構成している錯覚している「私」達一人一人、

宇宙のすべて一つ一つが常に完璧という事なんですね~。

 

だって、

「ワンネス(すべてが一つ)」=「ノンデュアリティ(我はいない)」

すべて幻想ですから 笑。

 

常に「私(自我)」なんかでは演算出来ない因果(縁起)で

「完璧な調和がなされている」。

ですので、この世のすべてが常々完璧な状態で「在る」というだけです。

そうすると「在る事をすべて受容するだけでOK」となりますよね。

そこに「私(自我)」の思考、解釈、ジャッジなんて必要ないという事。

勝手に起きる事が起き、湧き上がる物は湧き上がり、動く時は勝手に突き動かされる…

ですから、委ねてみると心地良いという訳なんですよ~。

ありがたさは常々在ったという事なんですね~。

(まあ、「自我」、「真我」、「無我」の関係性が感覚的に感じれる様になってからの話ではあるんですけどね 笑。

頭や理論でではなくね。)

 

宜しければ、ご参考になさってみて下さい。

勿論、しなくても良いです。

いつもご覧下さいまして、ありがとうございます。