情報社会。
忘れないだろうが、文字として残すために。。
NICUで7年間看護師として勤め、3年目研究でグリーフケアを題材にしたり、勉強会に積極的に参加してきた。その後保健師として健康にかかわる仕事を経験。
次女との最後後悔しないためにいろいろできたのは、勉強してきた情報があったためだったが、気持ちの変化やおもいというものはどうすることもできずに、同じような経験者の話をききたい、読みたいと当時ネットや本を読み漁ったものだ。。
でもヒットしなかった。。
そんな経験もあったのと、
自分自身の気持ちの整理として、可愛かった娘たちを知ってもらう意味でも文字にしていけたらと思う。
2015年10月3日とっても天気の良い土曜日
妊娠30週台で一卵性の双子の娘次女が胎内で死亡。
長女、緊急帝王切開で出生。
生きているかわからないほどに真っ白しろ、診断は重症新生児仮死 最高度活動低下。
1週間が山といわれるも、長女の持つ力を信じ自分にできることをいた。長女はNICUのスタッフに任せて、次女との時間を大切に過ごした。今思うと、もともと私が働いていた職場であり信頼できる同期や先輩、そして医師がいたからこそ次女にしっかり向きあえる時間を作れたのではないか。
火葬の日はちょうど私の誕生日。
最後の娘の寂しそうな顔が頭から離れない。。
その次の年から、誕生日が母に産んでくれたことを感謝する日でもあるが、同時にさみしい日となった。
長女は肺高血圧症やらなんやらと、NO療法を行ったり輸血をしたり何ともフルコースだった。
私ができることは、毎日面会に行き、毎日手足を優しくマッサージしたりタッチケアしたり、搾乳を3時間ごとおこなったり、とにかくそばにいること、辛くなることもあるが逃げずにそばにいること。
大変だったけれど、たくさんの良い変化にも気が付くことができて幸せだった。生きていてくれることのありがたさがわかっていたからかもしれない。(それは決して、亡くなったから悪いとかいう意味でもない。人の気持ちというものは表現が難しい。。)
ありがたいことにおっぱいは、乳腺炎になって一週間毎日母乳外来に行かなくてはならないほどよく出て、1日2リットルほどと完全な分泌過多(笑)私は牛さんでした
長女は1日100mlも必要なかったので、次女にお供えしても1.2ℓは余り 内100ml冷凍しても1ℓは破棄する毎日。母がもったないとたまに植木にあげていたのには笑いましたもっととっておけばよかったなって第3子を妊娠して母乳育児を辞めたときにおもいましたが、冷凍庫 家のも病院のもいっぱいだったから仕方ない
出生後2日くらい
身体が水分でむくんでます。
点滴類
インジェクターが沢山
次女は
病院を出てまずは、お家に
お腹の中で一番見ていた景色です。
火葬日当日は、朝の5時から長女にあって
着替えて、退院してと朝から過密スケジュール
人気女優でした
家に帰ってから
公園に行って、
パパのアコーディオンの演奏を生でききながらうっとり
それから
みせてあげたかった海へ
雲一つない、とてもいい天気でした
お空に旅立つ前に
できることさせてくれてありがとう
本当にありがとう。。