「空手道修行で得られたもの」初段受審論文 | 義理と人情と心意気と・・・ときどきてきと~に2

「空手道修行で得られたもの」初段受審論文

弊会では高校生以上の受審者には、形審査、組手審査の他、初段、四段で論文の提出が課されます。目的はその考え方を識るためです。

 

武道を修行する目的は他者に勝つためではありません。

短期的には大会などもありますが、子供達は特に、修行の過程の中でうまくいかない事や、負けること、叱られること、悔しいこと、失敗すること、稽古の手を抜きたい、今日は休みたいと思うこと、挫折から這い上がること、嬉しいこと、自信を持つことなど様々経験し、それらの己に克ち、各々がそれぞれの社会的立場で、世の役に立つ人、貢献し、必要とされる人になることが目的だと私は思っています。

 

堅苦しいことを書いていますが、夫々の目的、楽しみ方があるので、とにかく空手道を好きになって、長く楽しんで続けてくれさえすれば、それで良いですし、何より嬉しいことです。

 

 

今週末受審予定、東京本部・大泉道場所属 高校1年生の初段受審論文をご紹介致します。

 

 

 

「空手道修行で得られたもの」

 

小室 和歌

 

私は六歳の時に、極真空手をやっていた従兄弟の影響で空手を始めた。

 

空手を体験するのは、大泉道場が初めてだった。

 

母は、「和歌は先生に躊躇することなく素直に言う事を聞いていたよ。」と言う。

 

私は「ここで空手をやりたい。」と言ったらしい。

 

そして今年で十年目になる。

 

 

 

空手道修行で得られたものは二つある。

 

一つは空手を始めた頃の記憶で印象に残っているものがある。

 

幼児部の稽古が終わり、大泉道場から家に帰った夜の事だ。

その日の稽古の興奮が冷めやらず、部屋でもう一度練習しようと思った。

 

道衣に着替えようと探していたら、すでに母が洗濯していた。それを知った私は、

 

「道衣がないと練習できないよ。」と、母に怒りをぶつけ大泣きした。

 

あれは道衣を着ないと空手はできない、と思っていたのだろう。

 

紐や帯を結ぶ時、体と一緒に心も引き締まる感じがして「これから空手をやるんだ!」とあらたまる。

 

幼いなりにその気持ちの変化を悟っていたのだと思う。

 

十年間、道衣を着る度に感じた神聖な気持ちは、空手を続けた者が得られるものだ。

 

 

二つ目は仲間と師である。

 

学校以外で先輩や後輩ができるのは嬉しい。

 

稽古では技が出来なくて悔しい、恥かしいと感じることもある。

 

でもその恥や失敗は同じ経験をしている仲間や師が応援してくれる。

 

出来るようになるとさりげなく褒めてくれる。

 

繰り返し達成感を分かち合う度、空手をやっていて良かったと思う。

 

今は一般部になり、少し余裕も出て、大人に混じって型や組手をするのは本当に楽しい。

 

今の私が持っている、センスや好み、良い所も悪い所も空手の影響を受けていることは間違いない。

 

これからも空手から沢山のものを学ぶだろう。そして、私もそれを誰かに伝えていくのだ。