「映画と陰謀論」真実の所在、そして抵抗する良心は存在するのか。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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映画に愛を!
ゴジラから2001年宇宙の旅まで。
古今東西、思う存分映画を語るもんねっ!
愛と怒りをこめて、カーツ1発!
(独断偏見ごめんくさい!!やな人はスルーのコトよ!)

地球も終了せず、経済も相変わらず続くまま、新年を迎えました。
へえ、続くんだ、と。
・・個人的なことだけど、一つの区切りって意味も含めて書こうかな。

いやホント、あの東日本震災以降、
私は個人的に「アイデンティティ」の崩壊を経験した。

前にも書いて来た通り、
私にとって「映画」というのはもう「人生」であって、
常にどんな時もその基準には「映画」が傍らにあり、
大げさでなく血肉となって育ったのだ。
今の人生の失敗も(笑・・)そうである。

そんな私に、
この年になってから「それはないだろう」という仕打ちが待っていた。

「インディペンデンスデイ」に「奇妙な噂」があったことは公開当時から聞いたことはあった。当時ローカルTVの番組ADをしていた私は、大先輩Dにこの映画の怖さと噂を話すと、「それはあるよ」と言っていたのを思い出す。

それから「そんなこと」を気に留めることもなく過ごし、
一昨年、震災をキッカケにある情報にぶち当たり、
そこから「映画」に対する「疑惑」を芋ずる式に知ることになったのだ。

それらは「宇宙戦争」にも「マトリクス」にも「ターミネーター2」にも「仕込まれている」という。所謂「陰謀論」で言う「サブリミナル」の情報操作の噂である。

古くは「エクソシスト」で実験的に使われた手法が有名だが、
それはあくまで表現を追究する上での技術的「方法論」として解釈していたし、
良くも悪くも映画や映像にはそういう「潜在意識」に働き掛ける作用は意図の如何を問わず少なからず存在する。

ニュースの編集が「純粋な報道」か「制作者の作為」か、
という議論は今だ結論の出ることはないが、
それは「表現物」の宿命であるから、
残っているのは「制作者の誠意」以外に無いと言っても過言ではない。

つまり逆に言えば「悪意があれば」容易にプロパガンダと化すわけで、
私を含め「人の良い」性善説の日本人は
とっくの昔に「踊らされて」きたのかも知れないわけだ。

・・これにはショックだった。
愛する黒澤も小津もゴジラもその「片棒を担いでいる」?!

・・実際、黒澤が越えようとした映画、
「駅馬車」のジョン・フォードなどが作ってきた西部劇。
これは明確にインディアンを「敵」に設定し、
「残虐な野蛮人・アパッチ族」というイメージを完全に米国人、日本人に植え付けることに成功している。

黒澤ですら「無邪気に」その面白さと迫力を受けて「七人の侍」という大名作を作ることになったのだ。
そう見ればハリウッド映画は確かにインディアン、ドイツ軍、ソ連、アラブ人、と敵を常に設定しそのイメージ戦略は大衆の意識下に根付いている。

特に問題なのはインディアンで、
私達は子供の頃観たそれら映画のお陰で
インディアンは残虐な野蛮人で、「悪い奴」という印象がある。

ところが義務教育中にきちんと知ることもなく観たのが「ソルジャーブルー」という西部劇である。そこに描かれる米国は「悪」であり、インディアンを虐殺する。

初めその違和感に戸惑い、
大人になってから実は米国人(英国人)こそがインディアンを蹂躪、侵略した側だと知る。

大好きな名作SF「猿の惑星」。
これも「説」ではなく、明確にそこには「悪意」があった。

「猿」とはなんと「日本人」のことだ。
私達は、それに金を払い面白がり有難がっていたのだ。
・・これもショックだった。

ハリウッドは、その創成期から既に「プロパガンダ装置」だったのだ。
勿論、先述の「ソルジャーブルー」のようにハリウッドに背を向け、
本当の「良心」で映画を作る作家が確かに居る。

そこも米国の懐の広さであるが、
最近の宇宙人侵略ものの多さは何を意味するのだろう。
宇宙人を友人として描いて来たスピルバーグは、
アカデミー賞を獲ってから宇宙人を敵として描き始めた。
何故だろう。

ここにも大きな、不気味なプロパガンダが横たわっていることは
映画界以外の情報を知れば「繋がって」くる。
映画界には、明らかに「向こう側」で洗脳を狙う一派と、
抗う一派が存在する。

私は、そのことを念頭に置いてこれからは映画と付き合うことにした。

そしてスピルバーグは今、「リンカーン」を世に送り出す。
「今」作ったその意味は、

一体「どちら」なのだろう。