風立ちぬ。批判も立ちぬ。でも、席は立てず。ああ、ご馳走さま。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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(独断偏見ごめんくさい!!やな人はスルーのコトよ!)

アホ過ぎて話にならんのだが、
「風立ちぬ」に禁煙協会とやらが噛み付いたという。
他にも中森明夫のように「宮崎ファシズム」というような批判や戦争礼讃との声もある。

どの批判も恐らく当たっている。
宮崎氏がその程度の批判を想定していないとは考えにくい。
(禁煙協会にはちょっと意表を突かれたのではないか(笑)。

実際、物語上で「俺たちは武器商人じゃない」といくら言って逃げ道を作って、
そういう批判者の目を緩和しようとしても、
ゼロ戦はやっぱり武器である。
その飛行機によって夥しい数の敵機は落とされ敵も又同胞の命も失われた。
宮崎氏はそんなこと承知の上で作っている。

禁煙もそうだが、人間の、
現在の文明を築き上げる過程でこういう人達は一体何が行なわれ、
何を知り、何を身に付けたのか。

この人達は、「今」ある自分達の価値観や文明というのが「スタンダード」である、
と一体いつ「定義」し、それを「普遍的なもの」と位置づけたのか。
「今」一速飛びに「この状態」になったとでも思っているのか。
どこまで傲慢で不遜な人達だろう。

そして「ファシズム」についてもそうだが、
私個人は、「表現」の世界は基本的に「独裁」の世界だと思っている。
作家の「内面的独善世界」を「表の世界」にアウトプットする行為こそが
「表現」である。

実のところ、そこに「他人がとやかく言う」こと自体がナンセンスな話である。
勿論、一旦アウトプットされたものは「外界」の人々の「もの」となる。
そこからは批判しようがボロクソに言おうが心酔しようが
各人の勝手である。

まさに宮崎氏は、一度完成したら作品を殆ど二度と観ないという。
作りっぱなしである。
そういうものだと思う。
もう次に意識は向いている。

一旦外に放り出された作品は、
もう「外界」の人の有するものとなる。
このことが何を意味するかといえば、

人は容易に「プロパガンダされてしまう」ということだ。
その点で、中森氏のいう
「これを批判出来ないマスコミなら終わっている」という意見は的を射ている。
その通りで、
「終わっている」のである。

宮崎氏も、手塚治虫氏も、
電車の中でいい年をしたサラリーマンが漫画を読む姿を嫌いだという。
これまた言い得て妙で、
彼らは、サブカルチャーである「漫画」は、
永遠に「漫画」という「低俗なもの」として
その「地位」を「貶めたくない」のだ。

そういう「ロマン」を感じているのだ。
ロックも映画も同じである。
国を挙げて漫画を礼讃するかのような麻生元総理の発想は一見もっともらしいが、
実は本末転倒、サブカルチャーが国家の手先になり下がる、
という意味で愚劣で下品な行為である。

そういう「サブカルチャー」としての表現に対して、
如何に「受け手が成熟しているか」ということが重要かということを物語っている。

(笑)そんなことを言うと、
たかがPOPカルチャーを楽しむのにいちいち民度が問われるのか、
ということになるが、

・・・実はそうなのだ(笑)。
それこそが「プロパガンダ」という策謀を実らせる種なのだ。
常に思考停止しないインテリジェンスと情緒を身に付けた成熟のないカルチャーの世界は、
「何でもあり」になる。

・・そう、現に「なっている」。
それが今の現状である。
知性の無い受け手は表現の世界を何の主体性も根拠も無く受け入れるか、
もしくは単に「避ける」。

これは非常に危険であるし、
意図的にそれを利用しようとする勢力にとってはいかにも好都合である。
今、そうなっているのだ。

逆に言えば、
優れた表現者は「いくらでも」ファシストになれるし、
本気になればいくらでも大衆を扇動出来る。

少なくとも宮崎氏には簡単に出来るのではないか。
ここで本物の表現者はそんなことにコミットしない。
そんなことは自分の仕事でないことを生まれながらにして知っているからだ。

・・・というようなことを考えながら、

出よう出ようとする涙を必死で抑えつつ、
あのセオリーを外したかのような(笑)
地味で盛り上げないラストが逆に心に染み入ってきて、

ああ、ごちそうさま、とてもいい映画でございました。