どーもいけない。どーも納得いかない。そんな日々が長すぎる。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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映画に愛を!
ゴジラから2001年宇宙の旅まで。
古今東西、思う存分映画を語るもんねっ!
愛と怒りをこめて、カーツ1発!
(独断偏見ごめんくさい!!やな人はスルーのコトよ!)

よーく分かってるつもりなのです。
映画馬鹿になってからの年季だけは自信がある。
映画が「機械芸術」であることも、
プロパガンダの最強兵器であることも、
ヤクザな世界であることも、

よく承知している筈なんです。
だからCG映画の進化にも基本的に賛成だし、
新世代の役者や監督の作品も出来るだけ見るし、
実際新しい面白さは散見できるし、
それらに対して殊更に「文句」を垂れるようなことは

「老害」でしかないことも百も承知で、
映画を取り巻く環境なんて、
サイレントからトーキーに、
白黒から総天然色に、
映画からTVに、

と変遷に変遷を重ねて、
その度に映画界は翻弄されてきた、
他の「純粋芸術」に比べると、
その「出生の業」なのか、

映画は常に「資本と表現」、
「芸術と娯楽」の間で揺れながら手を変え品を変え、
生き残ってきた。

それはちょうど、
物体Xがいろんな生物の細胞とデータを取り込んでは
自分の物として融合、進化するのと同じで、
映画そのものが他の芸術や表現を貪欲に取り込んで進化し、
いつまでもその「美貌」を保ってきた。
「今」には「今」に合う形で。

・・なのに、私と来たら、
そんな「今」がつまらぬ下らぬばっかり言って、
クサしてばかりいる、

ちっともワクワクしない、
ちっとも「乗れない」、
興奮しない、手に汗も握らない、
「血沸き肉躍る」ことなんてない、
とうとう見たいとも思わない、
感動も出来ない、
「不感症の女」みたいになっちゃったのです。

これは私のせい?
それとも映画のせい?
なんて考えて、
一生懸命考えてみた、

そうしてその結論は、
「やっぱり」、

・・「オレのせいじゃねえ!」ってことに
着地しちゃったんです・・。

いやいや、とてつもなく回りくどい言い方で辿り着けましたが、
そんな「あたりめえ」の答えって、結局、
「オレはジジイだ」と宣言しているようなものなので、
本当は避けたかった(笑)。

いくつもの複合的要因によって
その「現象」は起きている、
これまた回りくどい言い方だけど、

映画とは
「最初からそういうもの」だった
可能性があるんです。

つまり、現在の進化した形、というのが
「本来の成熟した形」であって、
これまでの映画の形こそが
「未熟な成長過程」に過ぎなかった。

そう見ることだって出来る。
チャップリンもクロサワもスピルバーグも、
その一過程に過ぎなかった。

と、いうことは、
現在の形、例えば「トランスフォーマー」なんかのビジュアルは、
CGというものの一つの完成形を提示して見せた感があるけれど、
「アバター」をそうだ、という人がいるかも知れないが、
私は「アバター」に「新しい表現の開拓」を
別段見て取ることが出来なくて、

むしろ「CG」がCGという技術として
徹底的に「使い切った」のが
「トランス・・」だと思ったのです。

その証拠に、
ハリウッド映画は
すべからくこの「マイケル・ベイ」的
「物量」感で見せようとするものが「基本」になっている。

それはマーベルであろうが
中世ものであろうがゴジラであろうが、
設定が違うだけで、
表現の基本形は殆ど同じ。

だからつまらない、という結論ではなくて、
それでも「更に」表現の進化を遂げた作品がある。

それは、私から見ると、
「見事なCG表現」であって、
それは同じ監督から
2作品も生み出されているのです。

「トゥモローワールド」と「Gravity」の監督、
アルフォンソ・キュアロンは、
前者では「CGを全く感じさせない」で、
「撮影技術」的に
「ありえない」表現をして見せ、

後者ではまさしく
「CGでしか為し得ないリアリズム」の境地に到達しています。
CGの「可能性」を「まだ」見せようとする
彼の姿勢に感銘を覚えます。

しかもそれは、
ことごとく「リアリズム」
もしくはドキュメンタリー的表現の方法論に
有効な「ツール」として完結している。

・・てとこで

ありゃあ、文面が長すぎちゃうんで、
肝心なことに全然辿り着かないわ、こりゃ笑。

この続きはまたの機会ってことで・・。