咳をしてもコモディティ | Hack or Fuck ?

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先日、図書館で『僕は君たちに武器を配りたい』という本を借りた。

Amazonの内容紹介によると、
これから社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非情で残酷な日本社会を生き抜くための、「ゲリラ戦」のすすめである。20代が生き残るための思考法。



と、ある。

今初めて知ったが、この本は20代が生き残るための思考法だったらしい。

おれにとって、20代など100年前の話だが、読んでしまったものは仕方ない。

で、その中で「コモディティ化」というキーワードが出てくる。

コモディティ(英:commodity)化は、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとってはどこのメーカーの品を購入しても大差ない状態のことである。
Wikipediaより引用


どうやら、コモディティ化した労働者とは、つまり資本主義という戦場に丸腰で飛び込むことのようだ。

上記引用したWikipediaの説明を言い換えれば、分かりやすいかもしれない。

労働市場に流通している労働者がそれぞれの個性を失い、企業にとっては誰を雇用しても大差ない状態。

書いていて、複雑な気分になるが、先に進むことにする。

そういうわけで、ざっくり言うと、この本は、コモディティ化しないためにはどうすればいいのかということが書かれている。その方法というか考え方を「武器」と捉えた上で20代の若者たちに説く。

言いたいことは実に分かるが、20代など100年前に通り過ぎたおれに「武器」はあまり魅力的とは思えない。どんな武器もやがては、「コモディティ化」する。

ふなっしーやAKBの総選挙の結果について深く考えたことがないように、資本主義とか市場経済についても深く考えたことはまったくないが、「コモディティ化」というのはそうした経済的プロセスに付随する事象、あるいは、そうしたプロセスに必然的に含まれる、はずだ。たぶん。

逆に言えば、「コモディティ化」が起きない経済プロセスはそこで終了する。

だから、経済プロセスは新たな「コモディティ」を必要とする。そこに善意も悪意もない。それは、ただ、そういうものだ。

欠乏や不足があり、それを満たすためにあらゆる奮闘があり、やっと手に入れたモノはいつしかコモディティとなる。石鹸1個に1万円を払う奇特な人はあまり見かけなくなる。胡椒を求めて世界の果てに行こうとは誰もしない。今日もてはやされているスキルは明日には余計な工程と見做される。それは、ただ、そういうものだ。

こうしたプロセスは民主主義のそれとほとんど変わるところはない。「平等」とは特権・権利のコモディティ化だ。

我々は誰かの既得権益のコモディティ化には大賛成するが、自身のコモディティ化には恐怖さえ覚える。

薄ら寒い情景が浮かんでくる。

今や、機能不全というか制度疲労というか、そのような状態を思わせる学校教育を受け、社会に出たら出たで、意味不明な慣習やノルマや残業に翻弄されながら何とか一人前になったと思ったのも束の間、突然肩を叩かれ、沈む夕日を眺める以外は何もやることがない人生。

たとえ仕事があっても余暇はせいぜい酒やギャンブルで時をやり過ごすだけ。休日と言えば、ひねもすテレビで他人の言動を漫然と見ている。

咳をしてもコモディティ。

ありきたりの虚無感が溢れている。

ある者はブラック企業のせいだと言い、またある者は教育のせいだと言い、改革が必要だと叫ぶ。ある者は憲法改正を望む。ある者は陰謀だと言う。ある者は懐古主義に酔う。そしてある者は「武器」を持てと言う。

そうなのかもしれない。

そうなのかもしれないが、それらすべてに共通するキーワードは結局のところ「コモディティ化」だ。

戦後(あるいは、戦前なのかもしれないが…)、日本は一丸となって近代化の達成に向かって疾走を続け、「経済大国」となった。そして気がつけば薄ら寒い情況がひたひたと押し寄せている。

しかし、こうした薄ら寒さは、近代化あるいは、資本主義のプロセスの順当な結果なのかもしれない。

そもそも近代化の達成とはコモディティ化の達成だったのではないかという気すらする。

だからこそ、そんな若者を不憫に思って、「武器」を配りたいという人も出てくるのだろう。

しかし、残念ながらおれを含めてすでに若者ではないあなたには「武器」は配られない。

かつては最新だったはずのあなたの「武器」は使い物にならない。それはすでに「コモディティ化」した後もない。

それはすでに100円ショップやディスカウント店で大量に売られている。

それはすでにネットに無料で転がっている。

冒頭で引用した内容紹介の一節が心を過る。

「非情で残酷な日本社会」

そうなのかもしれない。そういう面もあるのかもしれないが、それもある意味、順当なプロセスと言えばそうではないだろうか。

すべては「コモディティ化」する。

それを「非情で残酷」だと言えばその通りだが、それで「コモディティ化」のプロセスが止まるとは思えない。

いくら三丁目の夕日を眺めてもそれを止めることはできない。

いくら「取り戻す」と大言してもその舌は縺れるばかりだ。

「あの頃は良かった…」と過去を美化するのは、「昔はバナナは高級品だった」というのと同じようなものだ。

それでも、運良く、あるいは努力の賜物として、あなたも「武器」を手に入れることもできるかもしれない。

「非情で残酷な日本社会」という戦場で生き抜くことができるかもしれない。

そして、スタンリー・キューブリックが『フルメタル・ジャケット』で描いたように地獄のような戦場で仲間と肩を組んでミッキーマウス・マーチを合唱することができるかもしれない。

本当に人生が「戦場」であるとすればの話だが。

もちろんそれは妄想に過ぎない。

妄想に過ぎないが、あなたが「武器」を欲している限りはそれは現実となる。

でも、とあなたは思うかもしれない。

「武器がなければ、欲することを止めたら一体どうやって生き延びるのか。どうやってコモディティ化から逃れることができるのか」

残念ながらコモディティ化を免れるものは存在しない。思考や感情でさえもコモディティ化する。あなたが同一化するものすべてコモディティ化する。ただひとつのものを除いて。

そのただひとつのものとは、言うまでもない。

それは、あなたの本来性だ。つまり魂だ。

魂とは言わば「楽器」だ。

配ったり配られたりするような「武器」ではないことをあなたは知っている。

あなたがその気になりさえすれば、あなたはあなただけの音楽を鳴らすことができる。

その時、あなたは自分がいたのは「戦場」などではなかったことに大笑いする。

その時、あなたは安堵の意味を知る。

その時、あなたの人生は音楽になる。