鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)は奥平貞昌という人の家来で徳川家康の配下にあり長篠城を守っていた。
天正3年5月 武田信玄亡き後その後を継いだ武田勝頼は1万5千の兵を率いてこれを包囲する。
500人ほどの籠城兵はよく頑張るが所詮多勢に無勢、しだいに兵糧は尽きてゆく。
「家康殿に援軍を頼む」の命を貞昌から受け、水泳の名手だった強右衛門は城を脱出し
川を潜って武田軍の目をくらまし家康の居城岡崎城にたどり着き、長篠城の窮状を訴える。
このとき既に岡崎城には織田信長が率いる3万の援軍が到着しており織田・徳川の連合軍3万8千は
すぐに長篠に向け出陣できる態勢を整えいていた。
喜び勇んだ強右衛門はその朗報を一刻も早く伝えるためにすぐに長篠に向けて引き返すが
城のすぐ近くで武田軍に捕らえられてしまう・・・。
取調べによって織田・徳川の連合軍がやってくることを知った勝頼は
助命、武田家への取立てを条件に、「援軍は来ない。諦めて早く城を明け渡すべし」
と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令した。
こうすれば城内の指揮はたちまち下がり、すぐに城は自落するだろうと踏んだのである。
強右衛門はそれを快諾した。
長篠城の西岸に強右衛門は引き立てられた。
そして強右衛門は、声の限りに城に向かって叫んだのである。
「各々方、あと2、3日の間に信長・家康公の援軍5万がやってくる。もうしばらくの辛抱でござるぞっ」
武田軍は激怒し、強右衛門をその場で磔にして殺してしまった。
しかし強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様は長篠城の城兵たちを大いに奮い立たせ
織田・徳川連合軍の到着まで見事に城を持ち堪え、勝利を呼び込んだ。
話を聞いた信長は感動し、強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が彼の妻の故郷である
新城市作手にある甘泉寺にいまでも残っている。
強右衛門の忠義心に感動した武田方の家臣が磔にされている強右衛門の姿を書いた絵が現存している。
強右衛門の子孫は奥平家、徳川家で代々取り立てられ、その末裔は現在まで続いている。