肉球的幸福論 | つうしんたいきちゅう

つうしんたいきちゅう

ポケモンの小説やゲーム状況や何かの感想など

「もう駄目だよ。駄目、絶対無理っ」

 情けない声が狭い部屋に響く。続いて聞こえてきたのは、衝動に任せて頭を掻き毟るだけでは飽き足らずに机に打ち付けたと思しきガンガンという音だ。
「大体、終わるわけが無いんだよこんなもの。そもそも無理に決まってたんだ、最初っからさ。だってA4十ページだよ。無理無理、もう諦めた方がいいって」
 そんなことを言っている暇があったら、その一分一秒を惜しんで少しでも先に進めるべきなのでは無いだろうか。少し考えればわかるはずなのに、こんなにも至極簡単な計算すらも出来ない者が知的生命体だとはにわかに信じがたい。
 しかも、この間抜け野郎が属している種族は世間一般において我々よりも高度な知能を持っているとされている生物ではないか。無論、みんながみんなそうでないことは承知の上だ。しかし、自分のスケジュールすらも管理出来ず遊び呆けた末に泣き喚くなどという惨状を繰り広げる奴に、まともな脳味噌が詰まっているとは考えにくいというものだろう。
 そんなことを思いながら、俺は間抜け野郎こと彼を睨みつける。精一杯の抗議を込めたつもりなのだが、彼はそう受け取ってくれなかったらしい。床に散らかっていた布団で優雅な一時を過ごしていた俺の視線に気づいた彼は、縋るような顔をしながら俺を引き寄せた。
「そうだよな~。お前もそう思うよなあ! なあ、シロにゃん」
 彼が自らの身体の大きさも弁えずに床に寝転ぶ姿勢をとったせいで、積み上げられて塔を成していた本が一斉に崩れ落ちた。小難しい計算の方法が書いてある本だの、どこか遠い異国を舞台にした冒険譚だとか、この部屋の主とは違い熱気に溢れた少年たちによるスポーツ漫画だとか、惜しげも無くうら若き柔肌を露わにした女の写真が表紙を彩るいかがわしい雑誌やらがばさばさと音を立てる。
 シロというセンスの欠片も見出すことの出来ない名は、彼が俺の了承を得ること無く勝手につけたものだ。知的生命体ならば知的生命体らしく、もっと知性を感じさせる名前をつけるべきだと思うが今は触れないでおこう。それよりも問題なのは語尾につけられた「にゃん」であるが、これは俺が猫だからにゃんとかにゃあとかつけとけば良いだろうという極めて安直な発想の元に行われたことなのは想像に難くない。俺の毛並みが白いからシロ、という名付けの理由に負けずとも劣らない、安易ここに極まれりという思考回路と言えよう。
 そもそも、二十を超えた人間の男がにゃんだのと言うこと自体にえも言われぬ寂寥感を覚えなくも無いけれどそれはまた別の話だ。

「いいよなあ。猫は気楽で。俺も来世では猫に生まれ変わりたいぜ」
 元々大して無かったやる気は完全に失われたらしく、だらしなく床に寝転がった彼はむにむにと俺の肉球を弄ぶ。それは俺が大地を踏みしめ、地球の鼓動をこの身に感じるために存在しているものであり決して彼の疲れを癒すものでは無いのだけれど、どうしてこうも人間というものは俺たち猫族の肉球を過剰に愛しているのだろう。聞く話によると、肉球だけを取り扱った書籍も出版されているというでは無いか。奇妙奇怪、驚天動地。やはり我々と人間の間には、理解し合えないものがある。
「ああ、シロにゃんも俺と遊びたがってることだし、もうレポートなんてやめちゃおうかな。そうだ、それがいいよ。神様だってそう言ってるもんね。でも何の神様だろう、猫の神様とか? おお神よ、ワタクシめは貴方の遣いである麗しき白猫、シロにゃんにこの身を捧げることを誓います。つきましては、それに免じてレポートの再提出期日を設け……」

 言う必要も無いと思うが一応言っておくと、俺はこのクズと遊びたいなどという気持ちは微塵も無い。全ては彼による勝手な妄想であることは火を見るより明らかだ。それから、神に誓いを立てていたはずなのに最後の方は超個人的なお願いになっていることに本人は気がついているのだろうか。
 とは言え、いつまでも肉球をぷにぷにむにゅむにゅとこねくり回されているわけにもいかない。それは俺のプライドが傷つくからだとか、そのような下賤な理由の為すところでは無い。我々猫族にも確かにプライドは存在する、しかしそれは日頃から他の生物を見下し、威張り散らすために在るものでは無いのだ。
 俺はするりと身を捻り、彼の手から素早く抜け出す。開け放された窓から外に出ると、数ヵ月前よりは寒さが大分和らいだ心地良い空気が毛を揺らした。後ろの方から「あああ」と馬鹿みたいな呻き声が聞こえてくるが気にしないことにする。

 これ以上俺の肉球によって時間を無為にしては、こいつはどんどん追い詰められるに違いない。先々月のように、何も起きていないのに唐突に呵呵大笑[A1]をしたり近所迷惑としか言いようの無い[A2]雄叫びを響かせたりする前に、レポートとやらをしっかり仕上げてもらわなくては。
「シロにゃん……意地悪……」
 気持ちの悪い声を上げながら、彼が窓枠に項垂れているのが見える。意地悪とは心外だ、俺は彼の今後を真摯に思いやったに過ぎない。
 そう言おうとしても、俺の口から出るのは[A3]人間に判別することの出来ない音声のみ。彼にこの言葉は通じないし、俺が人間の言葉を発することも不可能だ。まあ、仮に言葉が通じ合ったとしても彼の自堕落っぷりが治るとは到底思えないが。
「仕方無い、もう少し頑張るか……シロにゃん、早く戻ってきてね? そしたら、俺はシロにゃんに尽くすから」

 人間である彼が猫に対して猫なで声を出すというのもなかなか奇妙な現象だ。帰りを遅くすることを密かに誓い、彼がパソコンに向き直るのを見届けてから木の枝を伝って歩き始める。


 暑すぎず寒すぎず、過ごしやすい気温。雨に濡れる心配も、風に吹かれる憂いも、不届き千万な人間どもにいらぬちょっかいを出されることも無い部屋の中でぬくぬくするのは勿論素晴らしいが、この季節は外を歩くのもまた良いものだ。塀の上をつたって進むと、脇から飛び出している枝の葉が身体をくすぐる。
 すっかり日も暮れて、夜も更けたとは言えまだまだ人間たちは起きているようだ。ほとんどの家の灯りはしっかりついているし、子供の鳴き声やテレビの音楽、ギターを練習している音などが街中から聞こえてくる。中には風呂場で歌っているのだろうか、やけによく響く上機嫌な歌声もあった。
 雲ひとつ無い夜空の下、月明かりに照らされた花々は春の匂いを惜しむこと無く振りまいていた。彼は花粉症というものを患っているらしく、この頃では花など全部散ってしまえととみに文句を垂れているが知ったことでは無い。夜に見る花というのもある種の風情がある。

「よう、白いの」
 近くの公園に見える夜桜に目を楽しませていると、丁度踏んでいた石造りの塀の元から声がかかった。
「白いの。お前だよ、どうした? この時間に散歩とは珍しい」
「なんだ、何かと思ったよ。今晩は」
 はっはっ、という息遣いと共に俺を見上げているのはここで飼われている犬だった。手作りであろう犬小屋に繋がれている首輪にはどうやら蛍光塗料の類が塗ってあるらしく、首周りだけが闇にぼんやりと光っていて少し不気味だ。
 ちなみに、この犬には犬小屋の札にもある通り、ラファエルというご立派な名前がある。癒しを司る天使の名を持つだなんて、シロなどと安易かつ愚直な名前をつけられた俺とは偉い違いだ。どう見ても秋田県由来の雑種で年中舌を出している犬に大天使の名がふさわしいかどうかはまた別の問題だが、それにしても、だ。
「大したことじゃ無いさ。あの馬鹿が俺を言い訳にレポートが終わらないとか抜かしだしたから、邪魔しちゃいけないと思って出てきたんだ」
「馬鹿だなんて。主人のことをそんな風に言うのはよしなさい」
「生憎、猫は犬と違って人につかず家につくものだから。お前さんみたいに忠誠心は持ち合わせていないんだ。そもそも、俺はあそこの飼い猫じゃあ無い」

 いつものように夜道を徘徊していた俺を初めて見つけた時の彼は酔っていた。呂律の回っていない状態で、「うにゃにゃ猫たんひとりー? うちくるー? にくきゅうー!」などとのたまう人間に無理矢理抱きつかれ、挙句頬ずりされまくった猫の心境を誰か理解出来る者はいないだろうか。俺を前にした彼は比較的いつも気持ち悪いけれど、酔っている時はより一層不気味だ。
「そう言ってやるな。それにしても、お前のところの主人はついこの前も同じようなことになっていなかったか? その、レポート……とやらに苦しめられている、そんな状況だった気がするが」
「言う通りだ。俺も詳しくはわからないが、彼にとってのレポートは我々にとっての雷雨くらいには恐ろしいものなのでは無いかな。あそこまで苦しんでいる人間は他所ではなかなか見られるものでは無い」
「うちのエリちゃんは、レポートこそ無いが宿題というものが怖いらしいな。学校から帰ってくると、『どうしようラファエル、今日の宿題絶対に終わらないよ』と語りかけてくるのだ」
 エリちゃんとは、ラファエルの飼い主である女の子である。ポニーテールの似合う活発な女子高生[A4]で、年中冴えない格好をしている彼とは段違いに魅力的だ。猫は主人を選ばないというけれど、ああいう主人ならば喜んで服従すると思う。
「人間にも色々怖いものがあるということだろう。高度知的生命体も良いことばかりでは無いみたいだな」
「ああ。それに、エリちゃんは今年の春から受験生というものになったらしい」
「受験生? それは人間がよく言っているあの受験生か? 新たな学校に通うために、それまでよりも多くの勉強をしなければならない、という」
「そうだ。大学生になるべく頑張らなくてはいけないのだ。父さんや母さんはエリちゃんよりも気合いが入っている」

 大学生。それは確か、彼が属するものである。エリちゃんやその他、毎年一定数の人間がそれになるために苦労を重ねているようだが、彼を見ていると苦労をしてまでなる価値があるようには思えない。むしろ、苦労しなくてもならない方が良い気さえする。
 気の抜けた日々を送り、猫なんぞにうつつを抜かし、たまにレポートに苦しめられる。そんなものになって何が楽しいのだろうか。そんなことを素直にラファエル公に言ってみると、公は相変わらず舌を出した愉快な顔つきのまま答えた。

「それはきっとアレだろう。大学生にも色々いて、エリちゃんが目指している大学生とお前の主人が属している大学生は違うものなのだ。例えば、犬にも色々いるが俺は雑種、三軒隣のマーガレット嬢は血統書付きのマルチーズ。恐らくそういうものなんだと思う」
「ふむ。平たく言うと、エリちゃんがなりたい大学生は高尚な存在で彼は低俗な大学生だと」
「そこまでは言っていない」
 しかしまあ、幸せに過ごしているのならばそれでいいではないか。そう続けて、ラファエル公が無意味に吠える。それに呼応するように街の犬が何匹か声を上げた。
「そうだな。大学生である彼は、毎日幸せそうだ。大学生になるというのは、幸せになる、ということなのかもしれないな」
「そうだ。きっとそういうことなのだろう。しかしレポートという敵がいるのはいただけないな。願わくば、エリちゃんにはそんなものに苦しまずに過ごしてもらいたい……ん?」
「どうした?」
 祈るように目を閉じた公の言葉が止まる。訝しむ俺の問いには答えず、公は犬特有の嗅覚を発揮しているのか鼻をくんくんとひくつかした。
「おい、白いの。お前の主人、何かを作り出したようだぞ。そろそろ帰ってやったらどうだ? お前の家からいい匂いが漂ってくる」
 何か、とは恐らく夜食に違いない。ということは、レポートに一区切りついたか或いは途中で投げ出したかのどちらかだ。経験論から言わせてもらうと、後者の可能性の方がよっぽど高い。
 しかし、彼が夜食を食べるのならばご相伴に預からないわけにはいかないだろう。俺は香箱座りを解き、塀の上で軽く伸びをする。

「じゃあ、今晩はお暇することにしようか。エリちゃんによろしく言っておいてくれ」
「そっちこそ、主人によろしくな。あんまり意地悪するもんじゃないぞ」
「意地悪してもどうせ堪えないさ。猫の意地悪は、人間にとってのご褒美とは専らの噂だよ」
「何だそれ。犬じゃ駄目なのか」
 どうでもいい会話を切り上げ、公は地面に寝そべり、俺は夜道を再び歩き出す。元来た道を戻り、彼が住むアパートが見える木の枝まで辿り着く。
 二階の一番東側、隅の窓は開け放たれている。ボロいカーテンがはためいているのが彼の部屋だ。犬ほどでは無いけれども俺だって鼻は利く、何やら美味そうなものを焼く芳香が辺りに満ちていた。
 目を凝らすと、その中で忙しなく動き回る彼が見える。アレは何をしているのだろう、少なくともレポートに精を出しているのでは無さそうだけど。今夜は徹夜か、それかうっかり眠って明日の朝に大泣きをかますかどっちだろう。こういうことが前もあって、油断すると船を漕ぎ始める彼の膝あたりをふみふみして起こすのを試みたのだけれどもどうやら逆効果だったらしい。俺の頭を撫でながら嬉しそうにまどろみ始めたから、もう俺の手には負えなかった。
 人間だったら、こういう時に溜息の一つでもついているところなのだろうか。彼の明日に思いを馳せながら一歩を踏み出す。もう一歩、一歩と進むうちに窓はすぐそこだ。俺の姿を見つけた彼が、ぱっ、と明るい笑顔になった。
「お帰り、シロにゃん! 今ご飯作ってたんだ、ミルク飲む? それとも、缶詰一緒に食べる?」
 俺に向かって手を伸ばしてくるが、それは敢えて無視して部屋の中に飛び込む。しかし彼は全く気にしておらず、それどころか嬉しそうに俺を迎え入れた。

 定位置である布団の片隅に腰を下ろす。すかさず彼が抱きついてきたので抗議の声を上げたが、彼は先ほどのように俺の肉球に心を奪われているようだ。本当、こんなものによくもまあ、飽きもせずのめり込めるものだ。
 ふと、ラファエル公との会話が思い出される。大学生とは、幸せになることだと言った。確かに俺の肉球をぷにぷにむにむにしている彼はこれ以上無いほどに幸せそうだが、本当にこんなんで良いのだろうか。少し不安になる。
 しかしまあ、幸せに過ごせているのならそれはきっと悪いことじゃ無いはずだ。形はどうであれ、こうして笑顔でいられるのは人間にとって究極の贅沢だと俺は思う。笑顔になることは出来ないけれど、俺たち全ての知的生命体にとっても、だ。

 幸せな日々よ、万歳。彼が適当極まりない祝詞を上げていた猫の神様とやらが実在するのかは不明だが、もしもいるのならばこんなことを願ってみるのはどうだろうか。彼を初めとする全ての大学生に、底無しの幸せを。いや、底なしとは言わないまでも、この肉球に乗っかるくらいの幸せを、どうか、永遠に。

「そうだ、シロにゃん。やっぱりレポートは終わらないよ。だからね、今回は大人しく諦めることにしたんだ。言うだろう? 人生諦めが大切って。それよりも、シロにゃんを可愛がってた方が幸せだもん」
 前言撤回。やはり幸せならば良いというものでも無かろう。俺の耳をすりすりしている彼を、出来ることならすぐにでもパソコンの前に送り返してやりたい。
 しかしそんなことは不可能だ。人間のような力は到底無く、あるのは精々ふにふにの肉球だけという猫の手は忙しい時にすら大したことは出来ない。
「ね、シロにゃんもそう思うでしょ?」
「にゃあ」

 思わねえよ。
 そんな俺のストレートな物言いは、間の抜けた鳴き声となって部屋に消えた。