夢の隣、隣の夢 2 | つうしんたいきちゅう

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ポケモンの小説やゲーム状況や何かの感想など

 僕の借りているアパートはライモンシティにある。赤羽橋を渡り、暗くなってきた道をてくてくと歩いていると中心街に出た。ここの、ジムのあたりを曲がって住宅地に進んで奥に入ったところにあるのだけれど、ふとバトルサブウェイの看板が目にとまる。
 早く帰るつもりだったけれど、ちょっと寄り道してみようか。最近どうもモヤモヤするし、バトルでスカッとするのもいいかもしれない。いらっしゃいませー、お安くしますよー、とマラカッチと共に声をかけてくる居酒屋のキャッチに会釈で返しつつ大きな入り口をくぐる。後ろでマラカッチのはなびらが舞った。
 平日の夜だけど、バトルサブウェイはいつでも盛況だ。青髪のジャッジも忙しそうに、自分のところに並ぶ行列をさばいている。なんだ、あの小さなメラルバを山ほど抱えた男の子は。メラルバの赤い角を一本一本調べているジャッジの彼もうんざり顔だ。
 僕の唯一のポケモンであるペリーラは自宅にいるしまだバトルには不向きなため、いつものようにポケモンのレンタルサービスに頼る。駅構内のブリーダーに声をかけてボールを三つ受け取った。
「期限は本日の二十三時までとなります。かわいがってあげてくださいね」
 ボールの中に入っていたのはランプラーとホエルコ、そしてヤナッキーだった。ポケモンの選択が基本的には不可能なこのサービスにしては、バランスがとれているパーティと言える。
 きっちり研究して育てられたポケモンには勿論及ばないが、レンタルサービスのポケモンたちはどんな人にも懐きやすい。だからバッジを持たない僕みたいなトレーナーの指示にも応えてくれるというわけである。今日きてくれた三匹も、ボールから出して「よろしくね」と言うとそれぞれやる気いっぱいに返事をしてくれた。ヤナッキーがびしっとグーサインを決める。
 シングルトレインの乗車切符を買い、階段を昇って改札へ向かう。ダブルトレインへと続く階段を、シュバルゴとアギルダーを引き連れた女性が軽やかに昇っていった。むしポケモン使いだろうか、頭にモルフォンを乗せている。彼女の後ろ姿を見送り、自分も改札を抜けた。
 ホームへ行ける人数は決まっているので順番待ちをする。前に並ぶ、ベテラントレーナーらしき風格の男性は隣にルカリオを並べていた。渋い色へと変わった鋼の腕がいかにも強そうだ、出来ればこの人とは当たりたくないなああ、なんて考えている間にも自分の番となる。ホームに滑り込んできた電車にドキドキしながら足を踏み入れると、プシュー、と音をたててドアが閉まった。
「ワックワクでどっきどきなポケモン勝負にしようね!」
 先に社内にいたらしい、ミニスカートの女の子がセミロングの髪とスカートの裾をひらりと揺らして笑ってくる。彼女が繰り出したのはオタマロ、こっちの先鋒はランプラー。まずい。どう考えても不利である。
「アクアリングよ!」
 女の子が先手必勝とばかりに叫んだ。オタマロの笑顔を綺麗な水の輪が囲う。きらきらと輝くリングはオタマロを守るように包んだ。
 それでもまだ出されたのが回復技で助かった、アクアリングの効果が厄介になる前に倒してしまえれば関係無い。ほのお技じゃダメだろうけど、他のタイプの技なら十分望みはある。
「たたりめ!」
 僕の叫びに応じたランプラーの体がぶわっと光る。妖しい紫色の輝きはランプラーを中心に広がって、まるで大きな目玉のようだった。震え上がったオタマロが弾き跳ばされ、床に叩きつけられて悲鳴をあげる。
「よくやった! よし、もう一度たたり……」
「ひるむな! ハイドロポンプ!!」
 意気揚々と指示を出そうとした僕の声に、ミニスカートの鋭い声が重なる。圧倒的に勢いで負けていて、ランプラーは明らかに動揺した。ランプの傘が困った顔で僕の方を振り向いたのは一瞬のことだったけれども、その一瞬が命取りだった。
 轟音と共に、オタマロの口から吐き出された水が押し寄せてくる。かなりの早さをもったそれはまさに怒濤のようで、僕は思わず目を瞑ってしまった。



 目を閉じたその時である。強烈な目眩が僕を襲い、目が開けられなくなった。くらりとする頭の中に、少しの間全身からの感覚が無くなる。瞼の裏側は乳白色のはずなのに、どこか桃色に色づいているようだ。

 電車の揺れを感じられたのは、それからどのくらい経ってからのことだろうか。規則正しく揺れながら地下を走る電車の中、僕はようやく収まってきた目眩に目を開ける。窓の外には当然ながら何も見えず、ただ真っ暗な地下通路と白い電気が続くだけだ。
 それにしても、えらく濡れてしまった。まさか雨に見舞われるとは思っていなかったのだけど、流石に全身びしょ濡れともなると人の迷惑にしかならないだろう。隣に立ち、携帯を見ているサラリーマンが僕から微妙に距離をとる。
 ふと僕は、自分の心臓がやけに高まっていたことに気がついた。目眩と動悸なんてヤバいじゃないか、と不安になったのだけども、それと同時に疑問も沸いた。そうだ。これは動悸なんかじゃない。

 僕は、何か胸の高鳴るようなことをしていたはずなのだ。

 だけどもそれが何だかは思い出せなかった。しかもそんなはずなど無かったのだ。僕はもう十分ほど地下鉄に乗っているだけであり、席が開かないかなあなどと思いながら突っ立っていただけなのだから。今はもう完全に見慣れた文字となった、英字新聞を席に座って読んでいるおじさんを眺めて思う。
 A列車、中学の頃に吹奏楽部で「A列車で行こう」を演奏した時には、まさか自分がこんな頻繁にもそれに乗ることになるとは想像すらしていなかった。なんて感慨に浸っていると、おじさんが新聞を畳み始めた。お、と期待する。
 駅が近くなってきた社内アナウンスがかかる。期待通りおじさんが席を立った。そんなに長く乗るわけでは無いけれども、せっかくなので座っておく。ほどよい柔らかさの地下鉄の席が僕は好きなのだ。
 タッチ画面を素早く操作しているスーツ姿の女性の隣に腰を下ろすと、途端に眠気が襲ってきた。駄目だ、今寝たら乗り過ごすぞ、という気持ちと、ちょっとだから大丈夫、という気持ちが戦闘開始してあっという間に後者が勝利を決めた。なんだか甘い匂いがする、誰かがベーカリーの袋でも持っているのだろうか、と思ったけれども、その疑問の答えを確認する暇も無いほど早くに僕は意識を手放した。がたんごとん、と電車が揺れる音を最後に聞いて。


「…………お客様、起きてくださいまし」
「…………風邪、ひいちゃうよ?」
 次に耳にしたのは、電車の音では無くて二人の男の声だった。もう停車しているらしい、リズムを刻む揺れの音は聞こえなかった。徐々に覚醒していく頭が僕に目を開かせる。
「うわっ!!」
 思わず声をあげてしまったのも無理は無いだろう。何故なら僕をじっと覗き込んでいたのは、かのサブウェイマスターだったのだ。それも二人揃って。黒と白、それぞれのコートが僕の目の前に立っている。
「あ、いえ、その、……すみません、」
「随分とぐっすりお休みでしたので、起こすかどうか少し躊躇ったのですけれども。クダリが起こした方がいいと申しましたので、失礼させていただきました」
「いえ!! こちらこそすいませんでした、お恥ずかしいところを……」
 熱くなっていく頬に合わせて、どんどん意識がはっきりしていく。そうだ。僕は結局あの後ランプラーだけじゃなくてホエルコも負けさせちゃって、なんとかヤナッキーでオタマロは倒せたけれどもその後のクルミルに負けて……。
 それで、あまりの情けなさに席で不貞寝してたわけだ。そして起きることなく終点まで行ってしまったということか。情けないにも程があるだろう。うなだれる僕を、白い方のサブウェイマスターが手を引いて立たせてくれた。
「こういうとこで、一人で寝てるの危ない。ゴーストポケモンとか、そういう子たち、いたずらするからね」
 にっこりと弧を描く口元でそんなことを言われると、なんだか無性に怖い気がした。深く突っ込みたくない話題のように思えたので話を変えてみる。
「それにしても、何故サブウェイマスターさん直々に……?」
 僕が乗った電車には、このお二人は乗っていないはずである。終点に着いて車両点検をするのであれば、その電車にいた駅員さんがするのが普通なのではないだろうか。首を捻った僕に、黒い方の車掌さんが「ああ、それは」と答えてくれた。
「別のお客様にサイキッカーの方がいらしたのですけれども、その方が『不思議なポケモンの気配がする』と連絡をくださりまして」
「気配……?」
「うん。その人と、その人の連れてたゴチルゼル。なんか、変な感じがしたって」
 私のシャンデラもなんだか落ち着かなかったようですし、と付け加えられる。それは僕がいるこの車両に、ということだろうか。僕はなにも感じなかったけれども、ゴーストポケモンを見つけるのすら苦手な僕が口を挟んでも仕方のない話題である。
 しかし、と黒い方のサブウェイマスターは肩をすくめた。
「しかし来てみれば、不思議なポケモンなどいませんでした。まあ電車という場所柄、そういう話は切っても切り離せないものでございますし、ごく稀に『本物』もおりますので油断は出来ません。お客様もお気をつけてくださいまし」
 さらりと聞き逃せないようなことを言われた気がするけれども、やはり深追いしたくない話題なので黙って頷くだけにしておく。それにしても随分遅くなってしまった、ここが終点ということは、さらに帰る時間もその分かかるわけだけれども家に着くのは何時頃になるだろうか。
 またペリーラに怒られちゃうだろうなあ、と思いながら鞄を持ち直す。借りたボールが三つきちんと揃っているのを確かめている僕に、白い方が「あれ?」と声をかけた。
「キミ、びしょびしょ。どうしたの?」
「ああ、これは……」
 
 雨で。
 
 と言いかけて、やめた。雨なんて降っていない。それにこれは先ほどのバトルで、オタマロのハイドロポンプをランプラー共々頭から被るハメになったからだ。
 じゃあ、どうして、僕は雨だなんて言おうとしたんだ?
「お客様……?」 
 黒い方が首を捻る。その様子に我に返った僕は、急いで取り繕うようにちゃんとした理由を言ってそそくさと二人から離れる。もう一度謝って立ち去る僕を、サブウェイマスターたちは不思議そうに見ていた。


 一体、どうしてしまったのだろうか。本当にダメである。やはり早く帰って休むべきだったのだ、そういえば慌てて帰ったせいで買おうと思ったラムのみのこともすっかり忘れてしまった。色々と上手くいかない。
 はああ、と溜息をつきながらマンションの階段を上る。住民ようのゴミステーションから見上げているヤブクロンに小さく手を振ると、体にちょこんとくっついている両手を振り返してジャンプしてくれた。その様子に少し心を和まされる。ちょっとだけ元気になって部屋の鍵をポケットから取り出して、ドンカラスのキーチェーンのついたそれをガチャリと回した。
「ただいま、遅くなってごめん」
 そう言って部屋に入るなり、ペリーラがどたどたと走ってきてお出迎えしてくれる。お出迎えというとなんだかとってもいい感じだけど、実際のところはそんな生やさしいものではない。助走をつけたいわタイプ複合が一気にこちらに突進してくるわけで、僕はたまらずよろめいてしまう。
「ちょっと、危ないって……」
 痛さに呻く僕の声にもお構いなしで、ペリーラはがんがんと突進を繰り返している。朝は具合が悪そうだったのに、もうすっかり良くなったみたいだ。もうちょっと落ち着いてくれれば良いのだけれども。ブリーダーに勧められた何匹かのうち一番元気のある子を選んだのは幸か不幸か。
 ペリーラの頭を撫でて部屋に向かう。床に転がったトランクを見て、僕は思わず「うっ」と息を詰まらせた。度重なるトラブルで失念していたけれどもそうだ、カントーの実家に帰るのがあと三日に迫っているのだった。にも関わらず、準備はちっとも終わっていない。期末試験だのなんだので後回しにしていたけれど、そろそろ手をつけないと本気でやばいだろう。
 まあ、最悪着替えなどは実家にもあるし……と駄目な思考を展開させながら視線をトランクからずらす。クリスマス休暇に連れていった際、実家のニャースと驚くほど相性の悪かったペリーラの預け先も決めているしなんとかなるだろう。僕の後をひょこひょこと追ってきたペリーラに「だよね」と同意を求めてみると、赤い嘴を大きく開けて、ぎゃあ、と一鳴きした。
『愛してたわ……でも、さようなら』
『そんな……いかないでくれ、お願いだ!』
 夕飯の支度をしながら横目で観ようと思ったテレビに恋愛映画が映っていた。切なげな笑みを浮かべた女性が、スカーフをはためかせながらスワンナに乗って男の元から去っていく。追いかけようとするも、男には飛べるポケモンがいなくて叶わない……なんて陳腐な物語なんだ。
 なんだか脱力してしまって、僕はテレビから目を離す。最近のポケウッド映画は変なのが増えたなあ、くだらないものを見ていないで自分とペリーラの夕食をさっさと作ってしまわなければ。と、動かした視線の先で小さな黄色が蠢いているのを見つけた。
「うわあ」
 テレビのコードも繋がっているコンセントに、バチュルが一匹くっついていた。電気をご飯にしているこのポケモンは、こうしてコンセント付近で時々お目にかかれる。ちみっこくて可愛いのだけれども、電気代の増加に寛大になれるほど懐がフエンタウンじゃない僕としては見逃すことは出来ない。申し訳ないけれど、退散してもらうことにする。
「ごめんね、一人暮らしの学生のところじゃなくてもっと電気に余裕のあるところに言ってね」
 何事かと近づいてきたペリーラから隠すようにしてバチュルを手で囲む。この堅い嘴でつっつかれたらバチュルはひとたまりも無いだろう。なんとか見せないように外に出さなくては。
 急に肌色の壁に覆われ、右往左往しているバチュルをそっと持ち上げる。微かな電流がぴりり、と僕の掌に走った。

 
 ふっ、と頭が暗転する。テレビの音が耳から消えた。くらりと体がよろめいて、指先が痙攣したのを感じた。深い穴に落ちていくような、それでいて空へと昇っていくような。がくん、としたあの感覚が全身に伝わる。白いコンセントが、グレーのテレビが、真っ赤なペリーラが。すべての色に、ピンク色のフィルターがかかったように見えた。

 一度大きく揺れた僕は、壁に頭をぶつけた衝撃で目を覚ました。またこれか、いい加減にして欲しい。そろそろ自分でも笑えない領域にきているような気がする。去った女性を走って追いかける男性俳優のモノローグを聞きながら、僕は自分に絶望した。
 実家に帰ったら近くの病院に行くべきだろうか。しかし行ったとして何と言えば良いのだろう。夢遊病? 白昼夢? それとも睡眠障害? どれも微妙に違う、仮に行ったところで「ちゃんと寝てくださいね」と言われて睡眠薬をもらうくらいが関の山だ。
 捕まえた蜘蛛を逃がさないように手を閉じる。いつの間にかテレビに上っていたペリーラが目ざとく僕の手の中をじっと見つめているが、素知らぬ風に遠ざけた。蜘蛛を助けると死後助けてくれるという説を僕は信じているのだ、たとえここはアメリカだからアジアの話は通用しないとしても。
「達者でねー」
 ベランダから放した蜘蛛に呼びかけて、僕は扉を閉める。今度こそ夕飯の準備だ、このままでは寝るのが何時になることか。今日で試験は終わって僕は実質休暇になるわけだけれども、図書館で借りた本を返すために学校に行かなくてはいけないのだ。帰国準備もあるし。
 鮮やかな赤をした、ペリーラの首もとを撫でてキッチンに向かう。気持ちよさそうに鳴いたペリーラは最近テレビの上がお気に入りだ。床暖房のようで温かいのだろう。割に強い足腰のしで画面と側面が傷だらけになるのには、もう目を瞑ることにした。
 そういえば、と冷蔵庫から買い置きの野菜を取り出しながら思う。先ほどのコンセントに刺しっぱなしにしてあるけれども、3DSの充電器が二週間ほど前に壊れてしまったのだった。この頃忙しかったからどっちみち遊べなかったからすっかり忘れていた。
 わざわざこっちで探したり、Amazonに頼むのも面倒だから実家の方で買うことにしよう。母親のポイントカードも溜まるだろうし、何よりこっちでそんなことをしている暇など残されていないのだ。飛行機の中でやろうと思っていたから、それが出来ないのは少し残念だけれど。

 …………あれ?
 僕は、『何の』ゲームをやろうとしていた?

 不意に、疑問が心を突いた。小さな針のようにちくりと、しかし深くまでその問いは僕の中に入ってくる。
 なんだっけ。
 どうしても思い出せない。
 頭の中がぐるぐるして、僕の意識が遠くなる。手に持っていたブロッコリーから、何故だか甘い匂いが漂った。テレビの画面では、明らかに追いつけないスピードだろうに、不思議と追いついた男性が女性に愛を語っている。ペリーラがばさばさとこちらに飛んでくる。
 でも駄目だ。僕はそれ以上を認識することが出来ず、何か圧倒的な存在に引っ張られるようにして闇の中へ滑り込んでいった。


「…………!? ちょっ、痛っ、!?」
 目が醒める感覚で一気に引き戻された意識で感じたのは、ペリーラの強い嘴が僕をつついた衝撃だった。レベルが低いむしタイプなら一発でやられてしまうであろうそれが僕を襲う。眠気だなんだと言ってられないほどの痛みに、僕は本気で声をあげてしまった。
「痛いって、やめて! ペリーラ!!」
 野菜室からとっさに取り出したベリブでどうにかこうにかペリーラを宥める。彼の大好物だけど、結構なお値段なためストックが少ないから大事にしないとと思っていた矢先にこれだ。どんどん小さくなっていく紫の果実を見ながら僕は嘆息する。
 しかしまあ、とうとうペリーラにまで怒られてしまうとは。一体どうしたものか、僕は夕飯の支度を再開しながら肩を落とす。これは本気で病院にかかることを考えるべきなのだろうか。しかし誰が信じるだろうか、ふとした瞬間に見る夢と現実が一体化しそうだなんて。
『もう君を離さない……』
『アルフレッド……』
 そして、映画では男がダンバル二匹を足場にして空に浮きながらチルタリスに乗った女を抱きしめていて力が抜ける。女の方もうっとりしているけれど、ダンバルを踏みつけて空中浮遊の彼は正直なところ完全に愉快でしかない。感動の抱擁を交わす男女のアップを映す画面の隅っこで、赤い目がきょろきょろと動いているのがおいうちをかけてくる。
 呆れと疲れが一気に襲ってきて、僕ははあ、と今日何度目かの溜息をついた。やっぱり明日は一日家で休んでいよう。本はまあ、明後日にでも返すことにしよう。
 僕の気も知らず、口元を紫色の汁で汚したペリーラが目を丸くしてこちらを見上げる。なんでもないよ、と笑って、僕はポケモンフーズの袋のジップロックを開けた。




 志の低い僕のことなので、結局準備は超ギリギリだった。着替えは手当たり次第にトランクに詰めたし、部屋の掃除も碌に出来ずじまいだ。ちゃんとやったことといえ、ばせめて家族や地元の友人たちへのお土産はきちんと買わねば、とホドモエマーケットにいったくらいである。
 こう言ってしまってはなんだけれども、ペリーラを預けられて良かったかもしれない。ただでさえ酷いザマなのに、ここに加えてペリーラの準備もあったら終わらなかっただろう。ぎゃあぎゃあと騒いでいるのを、友人のタブンネにヤンチャムと一緒に宥められていた彼を思う。お詫びの印に少し奮発してベリブのポフィンをあげてきたし、お土産も約束したから怒られないだろう。連れていってあげられなくてごめんよ、と特性テレパシーになったつもりで思う。
 例の白昼夢にも何度も襲われたし、本当に散々な三日間だった。実家でゆっくりすればなくなるかな、と希望的観測を心に浮かべる。
「はい、大丈夫です。お進みください」
 どうにかこうにか荷物を詰め込んだ、僕のトランクと鞄の検査が済んだようだ。そのままトランクは係員に預けて、手持ち用の鞄だけ受け取った。隣のカウンターでは同い年くらいの男が何やら引っかかって焦っている。
「お客様、申し訳無いのですけれども……生の状態でのきのみの機内持ち込みは禁止されております」
「え!? そうなんだ、知りませんでした……どうしよう、いっぱい持ってくって約束しちゃったよ……」
「そちらのリザードンはお連れ様でしょうか? それならば、ねっぷうでドライフルーツにしてもらうというのはいかがでしょう。その状態なら構いませんし、あちらにございますバトルルームなら技の使用も問題ございません」
「そういう問題じゃないですよね!? こら、お前もその気にならなくていいから!」
 係員の言葉に、自分の出番かと気合いの入った風に翼をバサリと動かしたリザードンを男が急いで止めている。なんだか大変そうだけど、他人事なのでそそくさとその場を去った。僕と入れ替わりで、初老の女性がパッチール柄の旅行鞄をカウンターに乗せる。
 搭乗時刻までは少しばかり時間があったけれど、今からどこかへ行くほどの長さでは無い。飛行機に乗る時はいつも時間を持て余す。大きなガラス窓から飛行場の向こうに見える、摩天楼みたいにそびえるヒウンのビルを眺めて僕は息をついた。
 せっかくヒウン空港に来たのだから、ヒウンアイスでも食べておけばよかったかもしれない。モードストリートの店限定と言いつつ、実は他の地方から来る観光客のために空港のゲート内でも買える場所があるのだ。ご当地ものにありがちな闇である。
「はい、ふーちゃんもあーん」
 座ったベンチの隣で、まさにそのヒウンアイスを小さな女の子が食べている。先がバニプチの形になっているプラスチックのスプーンでわけてもらっているのは、女の子の何倍もあろうかというペンドラーだった。一人と一匹、一つのスプーンでおいしそうに食べているけれども毒とか大丈夫なんだろうか。
 しかし日頃からどくポケモンと接している人は毒に耐性が出来るらしいし、彼女も大丈夫なのかもしれない。幼い頃に聞いた話だと、一時期カントーを震わせた悪の組織のロケット団は団員にどくポケモンを使わせることで、組織のイメージを作るだけではなく毒ガス作戦などの時に団員に被害が出ないような効果も狙っていたという。その真偽は定かではないけれど、知った時は素直に関心してしまった。
 なんてことを考えて時間を潰す。携帯の四角い画面、待ち受けに設定してあるペリーラが早くも恋しくなってしまった。昨日も味わわされたというのに、あのつつく攻撃がもはや懐かしい。
『ウォーグル航空クチバ行きをご利用の皆様にご案内いたします……クチバ行き、十時四十分発……クチバ行き649号の搭乗を開始いたしました……尚、搭乗口は十時三十八分にしめきらせていただきます……』
 なんだかんだで時間は流れ、僕が乗る飛行機の搭乗アナウンスが空港に響いた。ベンチで待機していた人たちの半分くらいが立ち上がる。僕も席を立ち、長い通路を進んで搭乗口に向かった。
 独特のにおいと、空気感。空港と機内をつなぐ、SF映画を彷彿とさせるような通り道を抜けると柔らかい席が並んでいた。ウォーグルカラーに統一された機内は、青の床と白い席で構成されている。自分のチケットに印字された番号のものを探して腰掛けた。ラッキーなことに窓際だ、運が良ければ雲の上を飛ぶポケモンが見られるかもしれない。ホウエンの上空は通るのだろうか、ごく稀に、緑色のドラゴンポケモンを目にすることが出来るという。是非とも一度見てみたいものだ。
 席に取り付けられている画面を触ってみたり、備え付けのカタログで映画を調べていると他の乗客も次々に乗ってきた。少年の手をひいたゴチルゼルが僕の前の席に少年を座らせている。基本的に機内でポケモンを出すのは禁止されているから、あのゴチルゼルは訓練を受けているのだろう。エスパーポケモンやかくとうポケモンなど、比較的知能の高い個体に介護や保育の面で手伝ってもらうというやつだ。
 少年のリュックを頭上の荷物置き場に上げてから、ゴチルゼルも席に着いたらしく黒い角しか見えなくなった。機内は乗客で間もなくいっぱいになり、シートベルトをつけるようアナウンスが流れる。赤いベルトについた金具がカチリと音を立ててからそんなに待つことも無く、機体が動く感覚が伝わる。
『皆様、おはようございます。本日はウォーグル航空をご利用いただき、誠にありがとうございます。この便の機長は……』
 流れるアナウンスに、徐々に動きを早める機体。僕ももうそれなりにいい歳なのだけれど、飛行機が飛び始める時はいつもドキドキしてしまう。前の席の少年が窓の方に身を乗り出して、ゴチルゼルにたしなめられている。

『間もなく離陸いたします……今一度、座席ベルトをお確かめください……』


 ふわり、と身体が浮く感覚がした。
 それは機体が離陸したことによるものではなく、ここ数日間で嫌というほど味わわされたあの、夢に落ちていく感覚だった。
 ごうごうと機体が動く音が遠く離れたところから聞こえてくる。この感覚に負けるものか、水でも飲めば醒めるだろうと手を伸ばして機内用に買ったペットボトルを取ろうとするも、僕の手はとても重くて動かない。同じように瞼と頭も重くなっていく。窓の向こう側で動く景色、ヒウンのビル群も、青く晴れた空も、他の飛行機たちもみんな、柔らかなピンク色に染まっていた。

『ただいまより、乗務員がお食事のサービスに参ります。アレルギーなどございます場合は、どうぞお気軽に乗務員にお申し付けくださいませ』
 穏やかな放送で、僕の意識が引き戻される。はっと気がついて窓の外を見ると、もう陸など何も見えないどころか青い空と白い雲が延々と続いているだけだった。どうしてよりにもよって、睡魔は離陸の瞬間に襲ってきたというのだろう。悔しくて涙が出そうである。
 それにしても、結構な時間眠ってしまっていたようだ。時計を見ると、離陸時刻から一時間ほど過ぎている。意識を取り戻すのにかかる時間は、どんどん長くなっているように思えた。
 隣の人もいるのにぐっすり眠っていたことが今更気恥ずかしくなってくるが、気を取り直して機内食は美味しくいただこう。前方から向かってくる乗務員さんに、前の席の少年が「ぼく、オレンジジュースがいい!」と元気よく頼んでいる。にっこり笑った乗務員さんから、少年の隣に座った女性が立ち上がってコップを受け取る。少年にジュースを手渡したその横顔は母親というには随分若く見えるけれど、姉か親戚か、それとも別の関係なのか。なんてことを、僕はぼんやり考えた。
「お飲物は何にいたしますか?」
 すぐに僕の番になり、乗務員さんが僕に尋ねる。コーヒーをお願いします、と言うと湯気を立てたそれをその場で注いでくれた。受け取りながら次の質問を受ける。
「お食事にはビーフとチキン、それとポークがございます。どれがよろしいでしょうか」
 それは機内食にはお馴染みすぎる台詞だ。中学生が使う英語の例文として、教科書やワークにも登場するくらい有名だ。
 それくらい簡単な英語なのに。
 とても易しい、初級の英語だというのに。
 僕は、その言葉を。

「えっと……? ビーフ、って、……なんでしたっけ?」

 理解することが出来なかった。
 英語自体は聞き取れた。その中から選んでくれ、という乗務員さんの意図もはっきりわかった。
 だけど、ビーフ、というものが一体何なのか。
 チキンとは、どんなものだというのか。
 ポークって、どういうものなんだろうか。

 僕の頭は、その情報を処理しなかった。

「え……? ええと、ビーフは牛の肉で……」
 乗務員さんが困惑したような顔になりながらも、丁寧に説明を始めてくれる。牛の肉。それを聞いた途端、僕の思考回路は一気に繋がった。
「あ、ああ!! そうですよね、すいません! ちょっとボーッとしてて、すみませんでした!」
「は、はい……どれになさいますか?」
「本当にすいませんでした!! えー、ポークでお願いします」
 慌てて取り繕う僕に、乗務員さんも、隣に座っている男性も不可解な目を向けてくる。思わず大声を出してしまったせいだろう、前の席からパンを頬張った少年が覗き込んできて、自分の顔がものすごい勢いで熱くなっていくのがわかった。
「申し訳ございませんでした……」
 恥ずかしさのあまり、乗務員さんを直視出来ない。目を逸らしながら食事の乗ったトレーを受け取る。乗務員さんの去った後も、隣の乗客がちらちらとこちらを見てくるのがいたたまれないことこの上ない。いい加減にしろよ、と心の中で自分をぶん殴る。
 それにしても、何でさっきはあんなことが起こったのだろう。ビーフもチキンもポークもとても簡単な言葉だし、それの表す意味だって最低限の常識レベルと言って良いだろう。なのに僕は理解出来なかった。まるで、そんなものは存在しないと思っていたように。ビーフも、チキンも、ポークも、僕の知り得ないものだというように。

 まるで、僕の知っているそれは、別の名前をしているとでもいうように。

 いや、まさかそんなはずはなかろう。現に僕はすぐに自分の間違いに気がついたわけだし、今はそれらが何だかだなんてはっきりわかっている。やっぱり寝ぼけていたんだろう、この眠気にはほとほと困らされる。
 もうこんな恥はかきたくないな、と思いつつトレーに乗ったアルミ箔を開ける。ふわっ、と広がる白い湯気に包まれたポークビーンズを一口食べて窓の外に目を向けた。延々と続く青空と雲。それ以外に見えるものなど、当然、ない。