【訳者Greatchainより】

これは2つの全く異なった、しかし共通の問題を論じた、説得力ある記事である。これは、その巧みな言葉遣い「悪質化」から始まって、実に繊細に論じた、唯物論的科学者の急所を突く論文だと言える。このわずかの指摘から、科学に革命が起こる類いのものである。古生物学者ギュンター・ベックリーも、神経科学者マイケル・エグノーも、科学の権威主義に陥って、人の生命も心もわからなくなった者たちの、「堕落」または「質の低下」を指摘している。そこから必然的に「医学倫理」の問題(エグノー)が起こってくる。

ベックリーの科学者批判の場合も、化石化した生物を、独立した生物と考えず、進化論的にしか考えられなければ、それは悪質な科学、ニセ科学として、リチャード・ドーキンズの言ったsimulacrum (いかにもそれらしいもの=信じてはいけないもの)になる。それは学者的良心の問題として、一種の生命倫理問題とさえ言えるだろう。ベックリーは、「カンブリア爆発」時代についての、このシリーズのための長いビデオの中で、類似種の進化以外に、「進化」といえるような現象は、全く起こっていないと言っている。

 

 

David Klinghoffer (Science Uprising「科学の反逆」運動家)

January 22, 2020

 

Evolutionary Science

 

43,700万年前のサソリの化石の、間違った考え方(mischaracterization)について、昨日ここに書いていた古生物学者Gunter Bechlyが、ある適切な、しかし進化論思想を言い表すのに、思いがけなく適切な言葉を使っていた。それは “decadence” の状態を反映していると彼は言う。(訳者:この語はmoral deteriorationという意味で、「デカダンス」と訳すよりも、「悪質化」また「劣化」と訳すべきであろう。)

 

  「今日の科学の世界では、きちんと(nicely)保存された古代の化石を、客観的に説明するだけでは、もはや十分ではなくなっている。あなたは証拠を誇張して解釈し、空想的な進化物語によって、その重要性を高値で売りつけ(oversell)なければならない。そしてあなたは、自分の主張をするのに、大胆になることを躊躇する必要はない。なぜなら、科学的な論評をする人も、大衆的な科学メディアも、あなたの主張が実際に証拠に基づいているかどうかを、問題にすることはないからである。このシステムは崩壊した。それは出版するか滅びるかの圧力によって、また、よく目立つ見出しを制作する広告担当者の圧力によって、あるいはまた、生物学は進化という観点からしか意味をなさないという、馬鹿げたパラダイムの圧力によって、崩壊してしまった。」

 

道端に捨てられて

 

こういった状況の下では「良い科学は道端に捨てられる」。ところで、神経科学者Michael Egnorが、著書『心が肝要である』Mind Mattersで、全く異なった科学分野である「医学と医療倫理」において、“悪質化” についてコメントしている。堕胎容認者たちは、子宮内の赤ん坊は、我々よりも、また我々とは違って全く、痛みを感じないのだという間違った考えを、長い間主張してきた。真理は全く正反対である――「未熟の脳をもったまだ生まれていない子供は、おそらく、熟した皮質をもつ子供よりも、はるかにより強烈に痛みを経験している。」

 

  「堕胎ロビー活動が、我々の社会に与えた、おそらく最も心を痛める害悪――罪のない人間を何千万と殺した組織的な殺戮は別として――は、イデオロギーの名における科学の堕落である。この堕落腐敗において、胎児の苦痛感覚という神経科学の、誤った考え方ほど甚だしいものは他にない。

 

  「胎児の苦痛を再考する」というタイトルの「医学倫理ジャーナル」の新記事は、この堕胎ロビーの間違った考え方を矯正する、最も有効な資料である。著者たち(その一人は堕胎容認派である)は、胎児の苦痛感覚についての文献を吟味し、まだ生まれていない子供たちは、妊娠13週目にして、早くも苦痛を感じているという見方を証拠立てる、明らかな科学的結論を得た。

 

これは驚くべきことではなかった。なぜなら、新生児や未熟児を扱っている医者たちは、成人がほとんど感じない針の痛みに、彼らが反応して叫ぶことを、常時、観察しているからである。

 

ベックリー博士はこれ(この無感覚)を「悪質化」と呼び、エグノー博士はこれを「堕落腐敗」と呼んでいる。これは全く一つのものである。一般的な考え方では、科学者は、単に客観的に、事実を篩にかけているのだと言うが、現実的には、イデオロギー的な、思惑仕事が一般的で、おそらく昔より今の方がひどくなっている。ベックリーやエグノーが言っていることは、あちらこちらの科学者に限られたことではないことに、留意すべきである。それは組織的なもので、それゆえに「悪質な」ものである。

 

それは「蝕む」もの、あるいはもっと悪いもの

 

「ディスカバリー研究所」の新しいビデオ “Long Story Short” が言っているように、それは生物学の「相同」の話のように、「科学者は普通の人と全く同じ “人々” なのだ。だから我々は誰でも、自分が信じたいことを、批判する人を許せないのだ。」

 

それは温情的な言い方である。ある意味で科学者は、「誰とも似ていない」。すなわち、彼らが享受する莫大な威信のためであり、「彼らが信じたいことに批判的な者を許さない」恐ろしい力を持っているからである。そしてそれは、どこまでも腐食的なもの、悪意あるものでありうる。それは我々残りの者たちが、生命の起源について、現実世界の性質について、すなわち究極の質問を、どう考えるかに影響を及ぼす。それは、人類のうちで最も傷つきやすい者たち、子宮の中のまだ生まれていない者たちを、どう扱うかについて――注意深く扱うか、荒々しい態度で扱うかについて――大きな影響を及ぼす。

 

これらは、特別に注意を払い、特別に懐疑の目をもって見るべき理由を与える。それらは、あなたが人に指図されるより、自分自身で考えてみるべき問題である——「科学はどう言っているか」を考えるときの問題だ。

 

現代科学の文化について、もっと考えようとする人々は、エグノーの記事「ジェフリー・エプスティーンと科学者たちの沈黙」(拙訳)を参照せよ:――

http://www.dcsociety.org/2012/info2012/190928.pdf[[

 

PDF: http://www.dcsociety.org/2012/info2012/200128.pdf