ラマレラ 最後のクジラの民を読んだ。

 

私の住むアドナラ島の東隣りレンバタ島

その南端にある伝統捕鯨で名高いラマレラ村を描いたドキュメンタリーである。


もう最高に面白いかった。


まず、自分の知ってる、土地勘のある場所の話は実に面白い。


ラマレラの伝統捕鯨。

初めて知ったのは、チャールズコーンのインドネシア群島紀行だったか…


そして95年にインドネシアに赴任して、洋書のガイドブックで写真を見た。

それから雑誌で石川梵さんの写真という経緯だったと思う。


そのレンバタ島に初めて行ったのは貝輸送の仕事で99年。

この時はレオレバから北のワイヒンガに行っただけだった。


そして00年に今の仕事場のアドナラ島に赴任。

01年に遠出の出来るスピードボートが来て、一回目の釣行はフローレスとソロールの海峡出口にある灯台島、山羊島、鮫島にいったが、二回目の釣行で反対のレンバタ方面へ。

その時にラマレラ村の沖にまで行ったのが、初めてみたラマレラだった。


あれから20年経つ。

その間に何度も釣りに行って、沖から眺めてました。
捕鯨のシーズンが釣りに行かない時期もあって、捕鯨やクジラを持ち帰る光景は見た事はないが。

そして3年前か…仕事でレンバタ島を回った時にバイクでラマレラ村まで行った。

そういう土地勘があるだけに身近な話として読めたのだが、書いてある内容や問題点も私には身近な話で実に共感というか、わかる感が強かった。

レンバタ島南岸にあるラマレラ村。
火山で形成されたレンバタ島でラマレラ村周辺は実に傾斜が強くて耕作地は少ない。

さらにこの辺り共通する降雨の少なさ。

そういう人が住むにはあまり向いてない土地にかつて他所から(スラウェシ島方面と聞いた事がある)辿りついたラマレラの人々。

農業に向いてない急傾斜の土地だが、それが海だと一気に深くなる海域となり、深海でイカを狩るマッコウクジラが回遊する海域になる。
そこで昔から捕鯨でクジラを狩り、その肉を食べ、肉を干物にして山の民の作る農作物と物々交換して生きてきたわけだ。

そういう長年続く伝統のもとに生きてきたラマレラの人々も、経済発展で変わっていくインドネシアの流れに巻き込まれて…

その変化の中で生きていく人々の姿を実在する老人、若者、鯨漁師、数人を基軸に描いたのが本作である。

作者がラマレラを初めて訪れたのは2011年。
私が初めてあの前で釣りをした年と一緒。
それから何度か訪れ、一年近く滞在したこともあったとか。

私は沖から眺めるだけで、あとは聞こえてくる話を聞く程度だったので、ここに書かれる「変化」は伺い知る事はあまりなかったが、その「変化」はすごく理解出来る。

なぜなら、自分の住んでる周りで起きた事ばかりなんよね。

私の住んでるアドナラ島もラマレラほどではないが、人に対して耕作地が少ない。
したがって乾季の終わりに山を焼いて、陸稲や玉蜀黍を雨季に作るという農業が中心。
ただ、そこにカシューナッツやココヤシといった換金作物も作ってるので、ラマレラのような物々交換の経済ではないが…

しかしその現金収入も充分とはいえず、子供の進学や家電製品、そしてバイクに携帯と現金収入の必要性はどんどん高まっていく。

ラマレラではそれが理由で村を出ていく若者が増えて、本作の登場人物もそれで悩むシーンがいくつも出てくるが、アドナラはそれがずっと先行していて、ジャカルタへの都会だけでなく、マレーシアへ出稼ぎに行く人間が私が来た20年前から多数いた。

こっちに来たその状況から思い出したのら司馬遼太郎の「木曜島の夜会」
オーストラリアに私の飯の種である白蝶貝を獲る潜水夫として赴いた和歌山の人達の話であるが、なぜ出稼ぎをしたか?
明治維新で地租改正が行われ、税金は年貢と違い現金が必要。
その現金はいくら地面を見てても落ちてないとオーストラリアに危険な潜水作業へ従事しにいく。

それと一緒なんだなあ…と来た当時は思った。

レンバタ島の端の僻地にあったラマレラもだんだんと便がよくなるに連れて都会からの誘惑が届き、現金の必要が増していく。

本作でも
そういう現金の必要性から。
もしくは銛撃ちになるという夢破れて。
もしくはラマレラの土地に飽きて外への憧れから。

この土地を離れていく、または離れようとする人々が描かれている。

さらにそういう外からの影響は人々を連れ出すだけでなく、村やその生活をも変えていく。

その変化の描写でまず興味深く読んだのは
「ジョンソン」
船外機の事だが、初めてこの地に来たのがジョンソン社製の船外機だったのだろう。
未知の器具だっただけに、その製品名でなく製造メーカーの名前が呼称として定着して今に至るや

日本ではホッチキス。
インドネシアでは他にオートバイをホンダと呼ぶのと一緒ですな。

ジョンソンの船外機なんてクパンにいた時に一度見たきりで、今はヤマハ製品に専有されてるてるのに、船外機やそれを用いた船をジョンソンと呼ぶ。

このジョンソン、捕鯨船に使ってはならぬと。

私が初めて見た捕鯨の写真は帆をかけていた。
それと櫂で漕いでいた。

それはエンジン音でクジラが逃げるからとあったが、実は伝統にしたがってたわけだ。

しかし、自分も仕事で使いまくってるだけにその速度や楽さから伝統に従い続けるのは難しい。

まずは捕鯨船以外の漁に使われだし、
捕鯨でもジョンソンがクジラの近くまで捕鯨船を曳航していき、近くで放して銛を撃つというスタイルになっていく。

それでも、ジョンソンをそう使う事に抵抗続ける長老。

こういうジョンソンを導入するには多額の現金が必要だし、同時に燃料などの維持費も掛かる。

引き換えに水揚げ量は大きくあがる。

となるとジョンソンを導入出来る者や一族とそうでない一族に差が生まれる。

つまり、格差ってやつだ。

クジラという中々獲れないが、一度獲ると大量の肉を得れる生き物。

それに頼って生きてきた土地や人々だけに、分配という事がしっかり残ってきた。
我々の御先祖が狩猟や採集で生きてきた頃の様に。

それがジョンソンや収入の格差というモノの前に少しずつ崩れていこうとする。

長老が反対したくなる気持ちがすごくわかる。
なぜなら、そういう分配を中心にシステムの崩壊というのは、それを率いてきた長老、指導層の権威の低下に繋がるし、それに近い事を私もやってきたからだ。

ラマレラ程ではないが現金入手が難しく、ジャカルタやマレーシアへ出稼ぎに行く人が多い我が村。

村の様々な行事や運営は残った人達、長老を中心に行政の末端の村長と一緒に行われてきた。

そんなとこに真珠養殖場を開く。
それはどういう影響を村人に与えるか。
色々あるが、大きいのはあれだけ入手の難しかった現金を養殖場で働く事によって得られるって事だろう。
それも毎月安定して。

となると今まで入手出来なかったモノを買うし。
労力を掛けて得てたモノを現金で入手する。
本作にあった、遠い井戸へ汲みにいって飲んでた水を、ペットボトル入のアクアを買って飲むという描写の様に。

さらに村に生きる義務であった様々な共同作業。
それを仕事を優先してお金を出して免除してもらう人も出てくる。

そういう現金を持つ力を従業員は他の村民に見せつける事が出来る。

同時にこの頃普及しだした文明の2大利器
携帯とオートバイを真っ先に入手する。

これらは公共交通機関の無いこの地では移動力を格段に向上させ、さらに離れた地の人との意思疎通能力もあげる。

そうやって田舎に出来た会社の従業員になると言う事は周りの人間が持ってないモノを持つ事になり、ここにも格差というのが生じてしまう。

今までそこらにたむろってる若者の一人、その他大勢だった何人かが、現金を持ち、携帯を使って隣村やジャカルタに出た人間と頻繁に連絡をとる。
そして用事があれば簡単に街に行ってしまう。

そういう人物についていく村民も出てくるだろう。

そういう持てる若者が生まれる。
それも複数。

それは当然ながら長老などの指導層の権威低下を意味するのだ。
そのため、そういう状況を産み出した諸悪の根源として、私は一部の長老から蛇蝎の様に嫌われておりました。

私自身は敬意を持って接してましたが、従業員の中には長老の決定に異を唱える者も出たり、そこに同じ村でも部族の違いから争いがあったりと。

本作のジョンソンに反対する長老が儀式を漁師にすっぽ抜かされて怒り、黒山羊を用いた呪詛を報復に行おうとする。
それをなだめて時代の変化に対応していこうとする息子を後をはやく継ごうとすると、それに反発する長老。

そういうシーン、どっちの気持ちもわかるだけに頷きながら読んでました。

更に本作には村外で成功した人間が戻ってきて村長に祭り上げられ、新たにラマレラでビジネスをしようとする…が村の反発を買って叩き出される…って描写もありましたが、似たような光景を私も見ました。

そういう既視感があるだけに、出てくる人物への親近感が半端なく…

それぞれ意見や行動の対立も、どっちも言ってる事や考えてる事が理解出来るんだよなあ。

私は他の読者と違い、こういう立場なのでより親近感を得て読めました。
しかし、そうでない多くの読者、レンバタ島やラマレラがどんな所か知らない人をも引き込ませる筆力がこの作者にはあると思います。

作者の用いる、実在する複数の人物を登場させ、彼らの悩みや希望を並行して書いていくこのやり方は、かなり登場人物に近づいて読んでいけるのではないかと思います。

作者が描く、
若者の退屈な田舎に飽きて都会へ出たがる気持ち。
と同時に小さい頃から憧れてた銛撃ち(ラマファ)を目指し、それが叶いそうになく挫折し、また立ち上がる気持ちを
父母、祖父母を面倒みながら、恋をして自分も母や祖母がやって来たように子供を産み育てていく事を望むと同時にこれでいいのか?もっと勉強をして外の世界を見たかった…という女性の気持ち。

作者の届けるこれらは、形は違えども、我々の日本にもあるし、またそういう葛藤は今に始まった事ではないと。

文明や通信機器や輸送の発展でそれは加速したとはいえ、昔から生まれ育った地にて父母と同じ様に生きていく事と新天地への憧れ。
その対立がなければ、我々はアフリカから世界中に広がってなかったかと。

また時代の流れにどう向き合うかも同様かと。
先祖からのやり方を守ってきた捕鯨とはいえ、全く変わってこなかったわけではないと思う。
わずかでも改良し、そして外からくる技術や道具をも少しずつ導入してきたと思う。

その外部からの誘惑に流れ込むモノが膨大になり、その流れに安易に乗っかると全てが変わってしまいかねない…

かといって、変化を拒み続けるのは無理。

世界中で、そして我々も直面してる問題を、レンバタ島の端っこで生きてる人達が答えを出す事を迫られてる。

それは残念ながら上手い解答というものはない。
本書でも、出てくる人物は皆、答えを出せてない。

それでも人は生きていかねばならぬ。
鯨を獲り、それを食べ、恋をし、結婚して子供を産み育て、そして死んでいく。

変わって行く世の中で、迷い憧れ、そして諦め、それでも懸命に生きていく。
その基本はどこも変わらないんだなと。

私も20年以上沖から眺めてたラマレラの村々。
今後、その光景や生活がどう変わっていくのか。
それは今いる、養殖場やその周りの村々はどう変わっていくのか…
など普段からぼんやり考えてた事を一気に胸の奥から浮上させてくれた作品でした。